コンケプチオの読書日記

Une vie consacrée à la lecture.

幸福とは何か?

 まあ、あまり「・・・とは何か?」を連発すると、なんかニーチェのいう末人みたいだけど、アタシはどうせ末人だから末人に徹してみるのも一興であろう。

 幸福について考えてみたくなったのは、中沢新一の幸福観に刺激されたからだ。それによると、幸福とはhappinessや bonheurの訳語であり、欧米の幸福観はhappenやbon+heur(善い時)が示しているように時間的意味がある。元々、日本人にはそういう時間的意味の幸福観がなかったので、明治期に古代から伝わる「幸」と仏教的な「福」を組み合わせて「幸福」という造語にしたということだ。

 しかし日本語の「幸福」には時間的意味がなく、「幸」の語源は「海の幸」「山の幸」が示しているように、狩猟民族にとっての獲物を意味しているし、「福」は七福神のように神を表している。その一人の布袋様は袋から財を与えてくれるわけだから、なんか日本語の「幸福」を語源まで遡ると物欲まみれのような感じがする。

 「幸福」と言えば、おそらく多くの人は物欲ではなく愛のようなものを連想するだろうけど、中沢新一の見解を参照すると、それは「幸福」の語源的意味とさほどかけ離れたものではないようだ。

 「海の幸」「山の幸」を狩猟民族の獲物、つまり物だから物欲だろうと捉えるのは現代人の発想であって、古代人にとってそれは動物の神でもあり自然の神でもあるカミからの贈り物ということになる。「幸」(さち)の「さ」は自然界と人間の境目を意味するらしい。で、贈与には「マナ」とか「タマ」という霊力の移動を伴うということだ。

 こんな説明を読んでいると、「だって、オレ古代人じゃないし・・・」と思ってしまうんだけど、思い当たるフシはある。贈り物をもらって嬉しくなるのは、単に欲しいモノが手に入ったからではなく、贈り主の愛とか感謝が感じられるからなんだな。どんな小さな贈り物でも、それが贈り物である限り、宝くじが当たった「幸福」とは異質のものがある。「宝くじ」の賞金には愛も感謝も伴っていない。むしろハズレた者の恨みがこもっているかもしれない。

 古代人にとって「幸」とは、自然の神からの贈り物ということで、神から愛されているといえば語弊があるけど、贈与とともに「タマ」が移動するということは、現代風に言えば自我が解放されて自然の神と触れあう状態のことであろう。アニミズムがそういう心象をもつのであれば、たしかに自然の神から「海の幸」「山の幸」を贈与されることは幸福である。

 こうしてみると贈与に伴う「タマ」の移動も現代的意味での「愛」も、自我の解放として、古代人の「融即」のように対象と合一することが根源にあるようだ。それが「幸福」の意味だと思う。言語の根源に隠喩・換喩がある限り、現代人も「融即」と無縁ではない。「人生は旅のようだ」というけど、いやいや、人生と旅は別のものだろう。別のものが一つになるのであれば、「私は神のようだ」と言うこともできる。神バンドというのもある。「手が足りない」というのは、身体の一部である「手」で人一般を意味する換喩表現だ。だから「猫の手も借りたい」というのは、猫も働けという意味で、別に猫の「手」を指しているわけじゃない。そんな手を差し出されても迷惑する。(と私は思うんだけど。)

 ところで私見では欧米の幸福観も日本とさほど異なっていないように思える。同じように神話時代を経由しているのだから当然だ。

 bonheurというのは確かに「善い時」という時間的意味があるけど、ラテン語由来の félicité (至福)というフランス語もある。これなどは語源的に肥沃を意味するのだから、「肥沃」を自然の純粋贈与と捉えるならば、日本語の「幸」の語源的意味と近いのではないか。逆に「仕合わせ」はbonheurに近い意味であろう。

 幸福を正面から論じている哲学者はアリストテレススピノザだけど、どちらも現世利益ではなく「観照」とか「第三種の認識」に到達すること、つまり哲学することが最高の幸福であるとしている。それは学者の幸福みたいだけど、単なる認識の喜びとして幸福を捉えているのはなく、神と類似した生活を送るというか、神の本質の分有として神と合一することを幸福としているわけだから、上述の「幸福」の意味に近い。スピノザの言うコナトゥスとは自己の生に執着することではない。自己を変様させる創造としての本質力に固執することだ。それは自我の解放と矛盾しない。

 宗教上の幸福も、自我というボーダーを撤廃することにあることを勘案すると、概ね古今東西の「幸福」の共通概念としてエクスタシーによる合一を位置づけることができる、と私は思う。仏教の瞑想による「空」とか、イゾルデの忘我など、様々な状況証拠から無意識が至福であることは、誰もが直観しているはずだ。ただ意識が意識であるために、そのことを抑圧しているに過ぎない。

 まあ、エクスタシーはいいんだけど、その前に細かく分別する地道な作業をしなければエクスタシーにも到達しない。分析がアナロジーを生み、アナロジーを元にして分析する。あくまで分別があったうえでの合一だ。おそらく数学者は語らないだけで、エクスタシーを感じていると思う。分析哲学ウィトゲンシュタインぐらいになると魅力がある。本人の最後の言葉どおり、素晴らしい人生だ。こうして分別もなく雑に語る者が幸福から一番縁遠いんだな。