コンケプチオの読書日記

Une vie consacrée à la lecture.

中沢新一の思想

 「関係」という概念は何の疑問もなく使用されてるんだけど、よく考えてみると分からないところがある。そりゃ、大小関係、包含関係、因果関係・・・と色んな種類の「関係」があって、大小関係は自明と感じられるけど、因果関係についてはカントとヒュームの対立のように哲学的議論がある。

 正面切って関係とは何かと問われると、答えに窮する。にも関わらず、因果関係以外は概ね自明と思われるのは、関係項の知覚によって関係を把握しうるからだ。

 例えばAとBとの大小関係は、関係項のAとBの知覚によって明らかだ。これに対し因果関係は関係項の知覚では説明できない。関係それ自体は知覚できないからだ。

 そうした違いがあるにせよ、すべての関係を把握するうえで共通しているのは、AとBを比較することである。自明と思われる大小関係、包含関係等もAとBの比較可能性が前提となっている。

 ところでこの「比較」というのが妖しい。AとBを特異性として捉えるなら比較は不可能であるはずだ。「特異性」という言葉自体が曖昧だけど、AとBを特異性として捉えるということは、要するにBを非Aとして捉えることでもある。すると普遍集合を前提しない限りAと非Aとが比較不可能であることは自明だから、Aと非Aとの間には大小関係も包含関係も、いかなる関係も成立しない。

 とするならAとBとの関係は両者を比較しうる限り、Aと非Aを特異性として比較しているのではない。両者の間に何らかの共通性(普遍集合)があることになる。大小や包含関係の場合、その共通性とは同一空間に属していることだと短絡してしまうけど、それは問題を、Aと空間、Bと空間との関係にすり替えているに過ぎない。各個体と空間との共通性が解明されない限り、空間によって関係を説明することはできない。むしろ「空間」とは関係の総体の別称であり、関係が「空間」を前提としているのではなく、逆に「空間」が関係を前提としている。

 つまり「比較する」ことは、AとBとを区別しつつ、同時にAとBを共通するものとして把握しているわけだけど、「区別」と「共通」はAと非Aのように両立しないはずだ。何らかの共通性(普遍集合)を前提しない限り、一切の比較は不可能になる。

 長い間、私はそのことを疑問に感じてたんだけど、中沢新一の著書を読むことで、概ね答えが見えてきた。

 「比較」に潜んでいるアポリアは、無意識と意識がセットになってると考えると回避できる。つまり「関係」とは無意識と意識の二重性から生じたものなんだな。言い換えれば意識の論理のみによって「比較」を説明することはできないということだ。

 神話的思考は異なったもの同士を一つのものとして重ね合わせることに特徴がある。ブリュルの言う「融即」としてよく知られてることだけど、中沢新一はそれを無意識と繋げている。つまり神話的思考は、無意識が抑圧されずに意識にのぼったものだけど、無意識そのものじゃない。無意識は完全な同一化だから、そもそも異なったもの同士という表象は存在しない。あくまで無意識が意識にのぼったときに「融即」が生じるんだな。夢のように。

 だからAとBを意識対象として区別するなら比較できず、無意識もまたAとBが同一になっていて比較できない。AとBとの比較が可能になるのは無意識の同一が意識の区別に重なる場合のみだ。そして神話的思考の「融即」は無意識に近く、現代人の思考は意識に近いという違いがあるだけで、無意識と意識の重ね合わせが「関係」概念の根源にあることでは同じということになる。

 こうしてみると中沢新一の思想は吉本隆明に近いことが見えてくる。神話的思考とアフリカ的段階の重視が共通しているのは表面的な類似であって、もっと根源的に心の捉え方が共通している。例えば吉本隆明は「心的現象論序説」で次の式を提示している。

 

    原生的疎外 - 純粋疎外 = 関係意識

    (引用者:移項すれば、

    原生的疎外 = 純粋疎外 + 関係意識)

  

  これは原生的疎外を無意識、純粋疎外を意識と解するなら、右項の区別する意識(純粋疎外)はそれ自体では関係意識を持つことができず、左項の無意識を背景基盤として必要とすることを意味しているわけで、まさに上述したことと同じことを示している。

 昔、中沢新一の著書を読んだ時は、アナロジーで始まりアナロジーで終わる論考が果たして学問と言えるのかという疑問を感じたこともあったんだけど、それは部分的に捉えた印象でしかない。すべてを読めば、アナロジー同士が精妙に組み合わさって壮大かつ繊細な説明モデルを形成していることが分かる。そのモデルが現代社会を分析するうえで有効であることも納得できる。アナロジーは神話的思考でもあるから、中沢新一は確信犯としてそれに固執しているわけだ。このことは初期著作から一貫していてブレがない。話題が豊富で面白すぎるという余得まである。