コンケプチオの読書日記

Une vie consacrée à la lecture.

トリスタンとイゾルデは私である

 

  Doch unsre Liebe, heißt sie nicht Tristan und Isolde ?

  Dies süße Wörtlein : und, was es bindet, der Liebe Bund, 

  wenn Tristan stürb, zerstört es nicht der Tod ?

 でも私達の愛は「トリスタンとイゾルデ」という名前ではないでしょうか?

 この甘美な言葉「」、それが繋いでいる愛の絆

 それはトリスタンが死ねば解体してしまうものではないでしょうか?

 (ワグナー「トリスタンとイゾルデ」第2幕)

 

 やっぱ、ここはワグナーのトリスタンの中でも一番赤面するっていうか、要するに惚気じゃん!と言いたくなる。音楽でもなければ、とても聴いてられない甘ったるいセリフではある。

 しかしよく考えてみると深遠なんだな。ナルシシズムみたいなのに妙に理屈っぽいというか、ヘンな感じがするんだけど、死のフラグを立てて後で回収してるわけだから、そこは大目にみてもいいだろう。

 この「と」undから連想されるのは、ドゥルーズの離接的総合としての「と」etでもあるんだけど、むしろワグナーが音楽を神話と考えていたことを勘案するならば、「トリスタンとイゾルデ」というのは男性と女性を重ね合わせた二重存在として考えられる。

 つまりプラトンの「饗宴」に出てくる、ゼウスによって分断される前の二体一身の男女だ。あるいはユングの言うアニマとアニムス、この際ターミノロジーはどうでもいいんだけど、要するに神話的元型としての両性具有だ。

 もちろん現実の男女は個体として二つに分かれているわけだから、死によって一つに結ばれるというのは、別にワグナーに限らず古今東西、普遍的にみられる陳腐な発想だ。ワグナーの独創は「愛の死」にあるのではなく、生死にかかわらずトリスタンとイゾルデが常に一体だというところにある。それが「と」undだ。

 で、このワグナーの思想には生物的根拠がある、と私は思う。それは忘れがちではあるんだけど、人間は誰もが例外なく男女の性的結合から誕生したという事実なんだな。男性と女性の二重存在というのは現実にはあり得ないけど、自己の生誕の根源を遡ってみると、自己こそがそうした二重存在から発生したことは明らかだ。だから自己は男性でもあれば女性でもある。自己が二重だから自己愛や同性愛が生じるのも当然だ。異性愛の人はただその原事実を抑圧してるだけなんだな。すべての人間はトリスタンとイゾルデの二重存在を生きている。

 もしもトリスタンとイゾルデとの間に子供が生まれていたなら、その甘美で神話的な「と」の二重存在は子供として現働化したわけだけど、子供の方は自分が「と」であることに気づかない。自己が自己である限り、その原事実を忘却することになる。ロートレアモンの次の言葉は誰もが思い当たるんじゃないかな。

 

 Je suis fils de l'homme et de la femme, d'après ce qu'on ma dit. Ça m'étonne... je croyais être davantage ! Au reste, que m'importe d'où je viens ?

 人から聞いたところでは、私は人間の男と女の息子ということだ。こいつは驚いた・・・自分はそれ以上だと思っていた! そもそも、私がどこから来ようがいいではないか? (「マルドロールの歌」石井洋二郎訳)

 

 まったくそのとおりで、自分が「男と女の息子」であると考えることは自己喪失でもある。この問題について、ヘーゲルほど深く考えた人はいないだろう。

 

 Die der Kinder aber gegen die Eltern umgekehrt mit der Rührung, das Werden seiner selbst oder das An-sich an einem andern Verschwindenden zu haben, und das Für-sich-sein und eigene Selbstbewußtsein tzu erlangen, nur durch die Trennung von dem Ursprung - eine Trennung, worin dieser versiegt.

 子どもたちが両親に対してもつことになる敬愛の念が触発されるのは、いっぽうこれとは反対の感慨によってであり、じぶん自身の生成あるいは自体的なものを、他の者が消失してゆくことにおいて手にすることにかかわる。子どもたちはかくて自立的存在と固有の自己意識へと手をのばすわけであるが、それは根源からの分離を介するほかはない。これは、根源が枯れはててゆく分離なのである。(「精神現象学熊野純彦訳)

 

 かくしてトリスタンとイゾルデの「と」は、子どもという一箇の「疎遠で固有な現実」となり、他方で子どもにおける自己意識は、「と」という根源が枯れはてること、つまり両親であるトリスタンとイゾルデの死による消失によって得られることになる。

 このような親子の交錯はまさにヘーゲルが時間を前提としているからであって、ヘーゲル弁証法とは現実的矛盾を時間によってアリストテレス的に合理化したものに他ならない。同一時においてAと非Aが同一なら狂気となるが、異なる時間では合理的に成り立つ。

 だけどヘーゲルは自分でも気づかずに、現実の矛盾が示す狂気に限りなく近づいているようだ。自己意識が確立するのは子どもの誕生と親の死が契機になっているという洞察はロートレアモンにも通じる超論理であって、飼い慣らされた論理的矛盾とは異なっている。それは記述において時間的差異が消滅するからであろう。

 ヘーゲルから時間をマイナスすれば理性は狂気になる。自己意識が消失する代わりに二重存在の元型が永遠となり、神話が現実となる。私は母であり父である。私はトリスタンでもなければイゾルデでもない。同時にトリスタンとイゾルデは私である。

  時折、私は分裂症こそが無意識の至福ではないかというリアルな「感慨」をもつ。なぜならそれは単なる妄想ではなく、生物的根源的事実であり、自己意識の方が不幸な妄想だからだ。