コンケプチオの読書日記

Une vie consacrée à la lecture.

器官なき身体とは何か?

 以下は「ドゥルーズ『意味の論理学』の注釈と研究」(鹿野祐嗣著)の一論点を自分なりにパラフレーズした不正確な感想であることをあらかじめお断りしておく。だけど一読者がどんな刺激を受けたか記録しておくのもワルくないだろう。

 本書を読んでいて連想したのは、maximum the hormonの「hungry pride」と埴谷雄高の「死霊」なんだけど、それは抽象的で精密な議論が実はかなり具体的なことを述べてるんじゃないかという気がしたからだ。

 ドゥルーズの描いてる世界は独断論的で意味不明の造語に満ちてるように見えるんだけど、本書を読むと精神分析の膨大な知見に基づいたものであることが分かる。それもラカンだけでなくクラインやその批判者まで精神分析の枢要な議論をすべて踏まえたうえで、その理論的アポリアを解決するためにドゥルーズは「器官なき身体」という概念を創造したんだな。アルトー由来の造語で文学的視点から外在的に批判してるんじゃない。精神分析と同じ土俵で内在的に批判してるわけだ。それは先行するモノグラフの諸研究からもうかがえる。スピノザ論などは専門家達が道標と仰ぐぐらいのレベルだから、精神分析の批判も同水準とみて間違いないだろう。

 生後四ヶ月ぐらいの幼児の世界は破壊衝動と死の本能がせめぎ合っている世界とされているんだけど、それは勝手な妄想じゃなくてクラインなどによる観察に基づいてるんだな。まだ性衝動が自立化してない世界だ。性衝動ってのは不在対象のイメージを伴うから自我が成立する以前では、食欲などの自己保存衝動から分離していないわけだ。

 食べるという行為は自己保存衝動であると同時に、対象を噛み殺すという破壊衝動でもある。これは成人の世界とは無縁のように思えるんだけど、成人もまた毎日食事しているわけで、その都度、牛や豚、魚、植物などを「食い殺して」るんだな。まあ牛肉は高いから、我が家ではあまり牛は食い殺してないけどね。それが残酷だと意識されないのは料理によって生物が食物に変換されてるからだ。

 「hungry pride」の映像では動物が生き物を食い殺してるから破壊衝動マル見えなんだけど、人間は料理文化によって破壊衝動から距離を置いてるわけだ。でもそれは見せかけでしかない。ライオンが料理していたら温厚に見えるかもしれないけど、やってることを全体としてみれば残酷であることに変わりはない。人間も同じだ。哲学なんかやっていても、やっぱ毎日生き物を食い殺してることに変わりはない。しかも幼児の世界は自我が成立していないから破壊することは破壊されることでもある。だから破壊衝動は「分裂する身体」でもあり、「器官なき身体」は「分裂する身体」を前提としている。分裂しているからこそ「器官なき身体」として融合し、両者は離接的総合として一つになっている。だけど破壊しないってことは食べないことであり死に繋がるんだな。だから「器官なき身体」が死の本能に相当するわけだ。言い換えれば死の本能としての「器官なき身体」は破壊衝動から距離を取ることであり、文化の芽生えみたいなものだな。「死霊」に見られるジャイナ教の議論は、食べないと言う「死の本能」と文化が直結していることを純粋に示しているようだ。

 で、対象を破壊しないってことは、対象の表面にとどまることであり、皮膚と皮膚の接触へ衝動が分離することでもある。つまり食べるという行為には対象を舐める・しゃぶる行為が付随してるんだけど、それが口唇性欲として、皮膚同士の接触への衝動として自立化するわけだ。こうしてみると幼児の「おしゃぶり」は、破壊衝動から距離をとることでもあり、文化の芽生えとして重要な小道具かもしれない。

 とはいえ舐める・しゃぶる行為は食い殺す行為から完全に分離してるわけじゃないから、性衝動の背後には破壊衝動がある。性衝動は自我を伴うとはいえ、その自我は不安定でありSMの世界は境界線のようなものだ。性衝動抜きの破壊衝動に転落するとそれはSMではなく精神分裂になる。逆に破壊衝動を完全に排除してしまうと、ジャイナ教のような死の本能になる。

 ところで精神分析の理論的アポリアというのは、フロイトの一次ナルシシズムのことだ。フロイトは診断結果からナルシシズムを自我成立以前の一次と成立後の二次に区分したんだけど、自我成立以前となると一次ナルシシズムの備給対象が何になるのか不明なんだな。だって自我が存在しないわけだからね。またクラインは自我成立以前の妄想ポジションを主張するんだけど、ラカンはそれを否定している。これらの論点はいずれも精神分析における自我の生成論に関わっている。

 精神分析において自我は、ファルスによる統合として具体的に考察されている。我思うゆえに我在りなどという高踏的な議論じゃない。自我というのは、要するに自分の皮膚の表面全体が一つのものであるというイメージなんだな。確かに外界と内界が区別されるのは皮膚の表面だ。だから対象を破壊せずに、皮膚の表面にとどまる性衝動が自我の生成に不可欠になる。ところが性感帯は口唇、肛門、乳首、性器というように、特異点として分散している。それぞれの性感は異なっているから、そのままでは一つの身体の表面として統合されない。それはアルルカン(道化師)の服の模様のようなものだ。ファルスによる自我の統合とは、分散する性感帯を性器主導によって一つの表面として統合することなんだな。だからファルスはペニスではなく、ペニス主導によって統合された身体表面のイメージだ。しかし前述のように性衝動は破壊衝動を背景としているからファルスの線、つまり身体表面の統合は不安定であり、統合に失敗すると精神分裂になる。逆に「死の本能」によって破壊衝動から距離を取ることで安定するわけだけど、それは性衝動の否定になる。それが去勢だ。身体表面のファルスの線が去勢の痕跡に代わることで、ファルス的自我が象徴的自我になる。これがフロイトに還れというラカンの見解だ。

 これに対してドゥルーズは、ファルスによる統合以前にも自我が部分自我、微小自我として存在するとしている。統合によって初めて自我が成立するんじゃなくて、口唇、肛門、乳首、性器などの性感帯ごとに部分自我が存在するというんだな。そうすることでファルスによる統合自我成立以前の一次ナルシシズムや妄想ポジションの存在がうまく説明できる。部分対象というのは、部分自我がもつ対象不在のイメージというわけだ。例えば口唇性欲のおしゃぶりには、乳房の不在をイメージとしてもつ部分自我が存在している。特異点ごとに異なる部分自我、微小自我が存在していて、「器官なき身体」とはそれらの特異点としての微小自我の離接的総合というわけだ。だから「器官なき身体」は物理的身体的次元に近い最初の自我であり、著者によるとドゥルーズは自我を五段階に区分して自我の生成論を展開しているとしている。著者の説明を読んでると、無機物から意識が生成する唯物論的仕組みとしてドゥルーズはかなりイイ線いってる感じがする。ドゥルーズの見解は自我成立以前の妄想ポジションを認める点で、ラカンよりもクラインに近い。というか妄想ポジションの正当性を理論的に完成させているんだな。

 本書は煩瑣な引用をなるべく抑えて巻末にドゥルーズ文献の参照頁が詳細に記載されている。本書を読みつつ、ドゥルーズの該当頁を読むと、意味不明だった文が明確な意味のあるものとして読めることに驚きを覚える。ドゥルーズを理解したい人なら最初に読むべき本であると思う。