コンケプチオの読書日記

Une vie consacrée à la lecture.

古田徹也著「不道徳的倫理学講義」を読む

 タイトルから三島由起夫の「不道徳教育講座」を連想してしまうが、内容は運の視点から哲学史を再構成したもので、ウィトゲンシュタイン的な再構成の実践のようだ。不道徳好きの私としては当て外れだけど視点は興味深い。

 古来、運(偶然)と運命(必然)は密接な関係にあることが、ギリシャ時代に遡って指摘されている。両者は対立しているように見えるけど、人間によるコントロールが不可能という点で共通している。金持の家に生まれたのは運(偶然)であるとも言えるし、神意により定まったものとみれば運命(必然)でもあるというわけだ。見方によって偶然ともいえるし必然とも言える。現代思想においても、ニーチェのいう賽の一振りが偶然の肯定であったり、スピノザ的必然であったり、そういう反転する関係は昔からあったわけだ。

 それがなぜ道徳と関係するのかといえば、幸運と幸福の関係に変奏されるからだ。例えば「バレなくて幸いだった」とは言うが、「バレなくて幸福だった」とは言わない。幸運は道徳的に価値中立だが、幸福は道徳的価値がある。なぜなら道徳的責任は人間に管理可能な領域でのみ生じるのであって、管理不可能な運と運命の領域では生じないからだ。貧乏に生まれたことには、運(偶然)であれ運命(必然)であれ道徳的責任はない。

 昔から哲学者は幸福から運の要素を排除しようしていたわけで、幸運(偶然)によってもたらされた富・地位・名声を外的善として幸福から排除したのがストア派だけど、アリストテレスもまた「幸福とは、徳に基づいた活動である」として幸運による外的善を排除している。完全な幸福は観想、つまり哲学することであって、それは神の生活に類似しているから完全な幸福というわけだ。

 これなどは私も大いに共感するところだけど、アーレントに言わせると、そんなことはギリシャ時代では批判的言辞として刺激があっただけで、現代では当たり前すぎて何の刺激もないということだ。

 確かに引きこもって哲学してみてもあまり「完全な幸福」は実感できない。まあ私の場合は本気度が足りないだけで、驚きと発見の喜びの日々を送るには情熱が足りないということだろう。

 著者によるとアリストテレスは幸福から幸運を完全には排除しなかったらしい。それがなぜなのかは説明されていないけど、私見では「徳に基づいた活動」の解釈が分かれるからじゃないかと思う。つまりそれを人間に管理可能な活動と解釈すれば、運を管理不可能として排除すべきだけど、人間本質(素質としての徳)に基づいた活動と解釈すれば、神の本質を分有した活動ということで必然になる。スピノザはそう考えたわけだ。ストア派も運による外的善を排除しながら、神の理に基づいた理性的生を幸福と考えていたわけで、そうなると幸福から神意による必然を排除できなくなる。で、運命(必然)が運(偶然)と裏腹な関係にあるならば、幸福から幸運も排除できなくなるのではないか? そういう点で幸福から運を排除する哲学的試みには自己矛盾がある。なぜなら人間の管理可能な領域で善を追求しながら、その善が神という管理不可能なものに類似したものになるからだ。

 著者によると人間の実存は運と運命に関わっているので、一般道徳とは別に実存としての特異な道徳、つまり当の本人の生のあり方(倫理)に視点を移すなら、運・不運と善を完全に切り離すことはできないとしている。

 その例としてゴーギャンをあげているが、妻子を捨ててタヒチへ行ったことは一般道徳としては悪だが、芸術的使命という実存的視点に立てば、ゴーギャンにとって善ということになる。

 また子供の飛び出しなど無過失で交通事故を起こした場合も、一般道徳としては責任は問われないが、本人が自責の念にかられたからといって不道徳とみなすことはできないとしている。それは本人の実存にとっての問題だからだ。

 エディプス神話においても、本人の無知によって犯した行為だから道徳的には無答責のはずだけど、本人は目を突いて盲目になる。これもまた運命として、その自罰行為が誤りであると否定することはできない。

 刑法における結果責任は、まさしく運が関係するわけで、人間の管理不可能な領域で責任が問われるわけだけど、結果についての「予見可能性」とすることで管理可能に置き換えて合理性を保存している。こういう発想は、アダム・スミスの「道徳感情論」に起因しているらしい。つまり神の視点ではなく、感情に偏りのある人間の視点で結果を予測して行動したとしても「見えざる手」によって全体の善が達成できるというヤツだ。自分の子や財産を他人のそれより大切にすることは不公正だけど、そうした感情の偏りから出発しなければ、そもそも他人を尊重することもできなくなる。カント的な感情抜きの道徳は、神に近い人間には可能かもしれないけど、一般庶民には無縁というわけだ。

 ただアダム・スミスの道徳観がなぜ運を完全に排除しないのか、一般庶民の私としてはフィーリングでなんとなく分かるんだけど、論理的理由が今一つ不明だ。そこで自分なりに補足してみると、要するに人間の管理可能な範囲それ自体の境界線がどこにあるかが、人間自身には分からないんじゃないかと思うね。神じゃないわけだから。あくまで不完全な人間の視点に立つなら、管理可能な領域自体が曖昧なわけで、そこに運の要素が混入してくるんだと思う。もちろん全面的にじゃなくて境界線の周辺部分だけどね。それが例えば結果による加重責任だ。「未必の故意」と「認識ある過失」の境界線も哲学で一刀両断にはできない。被害感情などを考慮して、あくまで具体的事案において国民一般が納得する責任の所在を模索しなければならない。

 このように本書は、運の視点によって古代からスミスを経由して、現代の実存まで見通すことにより哲学史に別の相貌を与えている。

 もちろん問題が解決されているわけではない。ただ運と運命、幸運と幸福の錯綜した関係を丁寧に分析して問題を浮かび上がらせているのは確かだ。