コンケプチオの読書日記

Une vie consacrée à la lecture.

宇野理論における「労働力商品」

 ここんところマルクス経済学が面白い。哲学も面白いっちゃ面白いんだけど、推測に推測を重ねるような話が多く、なんか仙人みたいな雲をつかむような感じがする。その点、マルクス経済学は現実社会を相手に考察してるというか、手触り感があるんだな。一見当たり前の繰り返しが多く退屈に感じることがあったんだけど、それは大いなる誤解で、精読すればするほど奥が深いことが分かる。

 宇野理論においては「労働力商品」が重視されている。ってかマルクス経済学ならそりゃ当たり前だろと言いたくなるんだけど、一体どこにマルクスと異なる独自性があるというのか?

 理論研究ってのは、うまくいったとき、問題が解決したときにこそ、落とし穴があるというか、見過ごしてしまう問題が伏在してることが多い。

  マルクスによる「労働力商品」の発見がそれだ。周知のとおり古典派経済学のドグマちゅうのは「賃金=労働価格」にあるわけだけど、賃金が労働力の再生産費であること、つまり労働力の価値であることには気づいていたんだな。アルチュセールの言い草では、見えていたのに見えなかったというわけだ。だけどこのドグマに従う限り、リカード社会主義みたいに搾取には気づいていても、資本利潤を説明するには不等価交換を前提せざるを得ない。不等価交換ってのは詐欺・瞞着だからね、そんなもの前提にしたんでは資本の運動法則が合理的に説明できない。資本家が盗人だというのは馬鹿げてる。反社会的存在が社会を構成維持することはできない。だって反社会なんだから。あくまで労働者の血と汗と涙を、合法的に誰もが納得も得心もいく形で搾取してるんだ。

 で、マルクスは「賃金=労働力の価値」を発見したわけで、これを使えば等価交換を前提に搾取が説明できる。労働者の雇用も生産物の販売もどちらも等価交換で、剰余価値は労働(生産過程)においてのみ生じているからだ。つまり労働と労働力の概念的区別が鍵になるわけだ。森田成也のうまい説明によると、労働力を「扇風機」とするなら、労働は「涼しさ」に該当するという。つまり扇風機を買うことはできるが、「涼しさ」を買うことはできないってことだ。

 「涼しさ」それ自体は労働生産物ではないから価値がない。同様に「労働」それ自体も労働生産物ではないから価値がないわけだ。労働は価値を生み出す源泉であって、それ自体は価値物じゃない。価値があるのは労働力、つまり労働力を再生産する生活物資ということになる。

 以上はマルクスの発見で、この労働力価値を使えば、等価交換を前提に資本利潤が説明できる。つまり資本の運動法則を合理的に説明しうるわけだ。

 だけど、ロードスで跳んで喜ぶのはまだ早過ぎる。ここには論理の飛躍があるんだな。なぜなら労働者の生活物資を生産することは可能だけど、労働力それ自体を生産することは不可能だからね。マルクスは単純に生活物資の価値が労働力の再生産費に等しいとしている。確かにコストとしては同じだろう。だけど質的には両者は異なる。だって労働者は生活物資を購入して自ら消費することではじめて労働力を再生産するわけだから、生活物資がそのまま労働力と等しいわけじゃない。

 マルクスの定義では、価値というのは労働によって生産されたものなんだ。だから技術的にはともかく理念としては労働時間で価値を計量できるとしている。ならば労働力の価値はそれを生産する労働時間を計量できるか? 計量できるのは労働力を再生産する生活物資の価値であって、労働力の価値そのものじゃない。いいかえれば労働力商品の価値規定に成功していないってことだ。論理に飛躍があるのはそこなんだな。労働力価値を発見してよほど嬉しかったのか、Hic Rhodus, hic salta ! なんてカッチョいいセリフを吐いたのはいいけど、穴が開いてることに気づかずドツボにハマったのは自分なんだな。その穴が資本論全体の見直しを要請することに気づいたのが宇野弘蔵だ。その理論的功績は大きいと思うね。

 この落とし穴をふさいで、労働力商品の価値規定を行うには次の二つの方法が考えられる。

 ①労働力を擬制商品とする。

  例えば、土地、株式などは労働で生産されたものじゃないけど、擬制商品として擬制価格がある。同様に、人間の労働力も他の商品と異なり、労働の生産物ではないという特殊性を認めつつ、擬制商品として価格があり、それが生活費であるとする。だけどこの方法は言うまでもなく、労働力商品の価値規定の否定でもあるんだな。擬制は価値の否定だからね。

 ②生活物資の生産が労働力の生産と事実上同じであることを論証する。

  もしも労働者が生活物資を資本家から購入せず、他の方法で得る機会があれば、確かに資本による生活物資の生産が労働力の再生産であるとは言えない。しかし、労働者が資本主義的生産物を生活物資として購入する以外にいかなる手段も持たないとすれば、資本による生活物資の生産が事実上、労働力の再生産となる。それゆえ、労働力商品の価値規定は、資本の生産過程においてはじめて可能になる。この解決法が宇野理論だ。

 ここは繊細で分かりにくいので、じっくり説明しよう。

 例えば牛に労働生産物であるエサ(生活飼料)を与えて育てれば、たとえ牛が自ら消費して生命を再生産したとしても、牛もまた飼育業者の労働生産物になる。労働力を牛に例えるのは雑だけど、分かりやすく単純化すれば、それがマルクスの労働価値の考え方だ。

 で、宇野弘蔵もまったく、そこは同じなんだ。さもないと労働価値説を否定してしまうことになる。

 ただ違いは、マルクスはその餌をただ労働生産物としただけで、誰が生産したかを問わなかったってことなんだな。で、宇野弘蔵は、その餌(生活飼料)は資本が生産しない限り、牛は資本の労働生産物にはならない、という当然のことを指摘したわけだ。

 つまり労働者は家族が自家生産した生活飼料を消費したのでは、その労働力価値は資本が再生産したことにはならない。だから資本主義が生産過程を完全に包摂した純粋資本主義でないと労働力商品の価値規定は完成しないとしてるわけだ。

  ちゅうても実際のところ、生活消費財はすべてスーパー、コンビニ、アマゾンなどで買ってるから、農家が自家消費していた戦前はともかく今の時代では難癖じゃないかと思ってたんだけど、家事労働が自家生産だと気づいたとき、この指摘は具体性を帯びてくるんだな。確かに無償の炊事労働で、調達した食材の付加価値を高めてるからね。それで炊事した食事で労働力を再生産してるわけだから、家事労働を資本家に無償提供していることになり、その部分は不等価交換だ。

 

 以上のとおり宇野弘蔵がしばしば強調する「労働力商品の特殊性」というのはあくまで②の意味なんだけど、雑に流し読みすると①の意味だと誤解してしまうんだな。労働力は資本によって生産できない特殊性を持つという指摘は、文脈を考慮しないと①の意味と錯覚してしまう。で、宇野理論は価値法則を否定しているなんていう批判が出てくるんだな。それは誤解で、むしろマルクスの理論的穴を修復して価値法則を完成させてるんだ。なんか重箱のスミをつつくような議論と思われるかもしれないけど、労働力商品の価値規定が流通過程ではなく、資本の生産過程においてはじめて論証されるという指摘は重要であり、資本論全体の書き換えに繋がる。言い換えれば、純粋資本主義として資本主義が社会のすべての生産過程を包摂しない限り、労働力商品の価値規定は不十分なままにとどまるってことなんだ。

 だけど宇野理論はあくまで理論的抽象であって、現実の社会は純粋じゃないから、労働力商品なんて簡単に言ってもらっては困る。それはそれほど自明の概念じゃない。なぜなら労働力の再生産は、資本主義的生産物によってすべて賄われているわけではないからだ。いいかえれば現実の社会では、労働力商品の価値規定は不十分だ。森田成也が「家事労働」に着目するのはそこにある。この「家事労働」、男性は過小評価して、なかったことにしてるかもしれないけど、内閣府経済社会総合研究所の資料では2001年の家庭内無償労働の推計は129兆円でGDPの4分の1と推計されている。(吉川洋著「マクロ経済学」)

 つまり労働力の再生産について、資本による生活物資の生産過程を通さずに、かなりの部分がいわゆる「単純商品」として自家生産されてるわけだ。GDPから生活消費財のみ抜いて家事労働と対比すれば4分の1よりもっと大きいだろう。もちろん育児労働も含まれてるけど、それは次世代の労働力の生産でもある。労働力は人間のものであって商品じゃないという思いは、資本によって労働力がすべて再生産されているわけではないという現実の根拠がある。そりゃ家事も育児労働もすべて民営化されれば、純粋資本主義と言えるかもしれないけどね。現実の現代社会はまだ不純なんだな。だから労働力も完全には商品じゃなくて、商品になりつつあるんだ。それが概念的区別というものだ。