コンサクレ退屈日記

Une vie consacrée à la lecture.

サドをめぐる断想(その5)

 前回述べたように、サド的人物による論理は、快楽の根拠を衝撃の大きさに求めている点でワンパターンで単調な説明のように見えるかもしれないけど、その衝撃というものの正体は、実は局所的感覚なんだな。だから、衝撃が大きくなれば人間の構成関係全体のバランスが崩れて必然的に死を招くことになる。つまり死による衝撃からの解放を最大の快楽としてるわけだ。

 だけど魂の不滅性を前提として来世を信じるなら、死による解放という快楽抜きの永遠の責め苦になるんだな。サン・フォンというサド的人物は死による解放を否定してるんだから、別の観点から、苦痛の快楽への転換を説明する必要がある。つまり死による解放が存在しないにもかかわらず、なぜ苦痛が快楽になるのか、それが問題なんだ。

 それは、衝撃の量的な大きさではなく、衝撃の質的差異に基づいてる。つまり被害者の受ける衝撃と、それを観察する加害者の第二の衝撃が、ベクトルの異なる衝撃であるにも関わらず同一視されるのは、両者が自然の再生という人間よりも大きな構成関係の統一に包摂されるてるからなんだな。

 だからサン・フォンの論理を正確に理解するには、衝撃の量的大きさにとらわれてはならないのであって、その背後にある自然の形相的本質=構成関係による理解が必要となってくるんだな。その論理は錯綜していて難解だから、あくまで私見による印象論でしかないけど、要するに個人にとって苦痛は苦痛でしかない。だけど、その苦痛が自然の再生産に寄与するものとして、快楽の主体は自然あるいは悪の神になるということだね。

 人間に喩えれば、人間という構成関係の維持にとって、ウィルスや細菌の死滅が必要不可欠なんだけど、ウィルスや細菌にとっての「責め苦」が、人間にとっては健康という「快楽」に転換するんだな。それと相似の関係が自然全体と個人との間にも成り立つってことだね。これはスピノザの神の概念に類似してるんだけど、結局、スピノザとサドの相違は、神をどう捉えるかだね。スピノザにとって神はあくまで存在であり、だからかこそ神の様態的変様である人間本質が自己保存衝動なんだけど、サン・フォンにとって悪の神は破壊それ自体なんだ。再生産というのは自然それ自体の全的破壊であって、存在としてのポジティブな意味がない。そこがクロソウスキ―の指摘してるとおり、いささか狂気じみてるところなんだ。悪の神というマニ教的二元論の影響があるのかもしれない。

 だけど魂の不滅は、それを信仰するにせよ、あるいはカントのように理性の自律のために要請するにせよ、結局のところ自己の同一性に帰着するんだな。サン・フォンのように悪の神を信仰することは、悪徳である自己に固執してるんだ。これに対してジュリエットやクレアウィルのリベルティーヌは、目的なき悪の自動機械としてただ拷問を反復するだけなんだな。だからサン・フォンのような理性的自己が元々存在しない。ただ行為の反復があるだけで、サン・フォンの儀式のように一度で決定的に永遠の責め苦を犠牲者に与えるという目的もなければ信仰もないわけだ。ただ、苦痛が快楽でありさえすればいい。

 現代人がサド的人物のクレアウィルといくぶん似ているのは、結局のところ、死ねば死にきりと大半の人が考えてるからで、今どき、来世を信じてる人は少ないんじゃないかな。

 で、そうした来世の否定は旧約聖書の中にもあるというか、元々ユダヤ教には来世の概念がなかったんだな。そのことをサン・フォンを批判するクレアウィルは文献的に論証してるね。まずは引用から。

 

 私はここで『伝道の書』を開けて、読むのよ。

『私は人間の子等について心の中でこう言った。神はそれをありのままに見せ、本当に自分は獣だと彼等に悟らせるのだ。人間の行末と獣の行末は同じものだ、人間も死に、獣も死ぬ。二つとも同じ息をしている。人間が獣にまさるというのは空しいことだ。二つとも同じ所に行く。二つとも塵から出て塵に帰る』

 この詩ほど決定的に来世の存在を否定しているものはないでしょうね。

(「ジュリエット物語又は悪徳の栄え」サド著 佐藤晴夫訳 357頁)

 J'ouvre l'ecclésiaste, et j'y vois :

« L'état de l'homme est le même que celui des bêtes. Ce qui arrive aux hommes et ce qui arrive aux bêtes est la même chose. Telle est la mort des uns, telle est la mort des autres ; ils ont tous un même souffle, et l'homme n'a point d'avantage sur la bête ; ou tout est vanité, tout va dans le même lieu, tout a été fait de poussière, et tout retourne dans la poussière. (Ecclésiaste, chap.Ⅲ, v.18, 19 et 20.) » 

 Est-il rien de plus décisif, contre l'existence d'une autre vie, que ce passage ?

(“Histore de Juliette ou les prospérités du vice” Marques de Sade)

 

 佐藤訳ではEcclésiasteが「伝道の書」と訳されてるんだけど、日本聖書協会版の聖書では、旧約聖書の「コヘレトの言葉」に該当するんだな。原文には訳文で省略されてる文献引用箇所まで明記してある。これは単なる世間話じゃなくて文献考証なんだ。クレアウィルの指摘するとおり、来世の存在が明瞭に否定されているから、素朴なキリスト教徒からみれば衝撃だろうね。

 ならばキリスト教の専門家である神学者は聖書のこの引用部分をどう考えているかが気になるね。プロテスタント神学者のA.E.マクグラスによると、次のとおりだ。

 コヘレトの言葉はおそらく旧約聖書でも最も悲観的な書であろう。(中略)この書に困惑する読者も多い。これが、聖書的な見方の一般的な型に容易に適合しないように見えるからである。(中略)これは、神なしの人間の生活の惨めさと不毛さをまざまざと描いて見せ、神を完全に明らかにすることは人間の知恵にはできないのだということを表している。

(「旧約新約聖書ガイド」A.E.マクグラス著 本多峰子訳 273頁)

 このようにマクグラスは「旧約聖書でも最も悲観的な書であろう」と言ってるんだけど、私はそうは思わない。引照つき聖書によると、引用部分は創世記や詩編とも関連する部分であって、「塵から出て塵に帰る」という部分は旧約聖書の他の箇所でも頻繁に述べられてるんだな。

 つまり来世の存在を否定する考えは旧約聖書の「一般的な型に容易に適合する」んだ。むしろ適合しないのは逆に肉体の復活を説く新約聖書の福音の方だね。(キリスト教の教義では霊魂だけでなく肉体も復活する。)

 スピノザ思想においても、人間精神の本質は永遠のものとして神の本質に包摂されるとしてるんだけど、肉体の方は因果系列の持続相において他の個体により滅ぼされるとしてるわけだから、肉体の復活を説いてはいないんだな。してみるとスピノザ思想は、明らかにキリスト教的ではなくユダヤ教的であると言えるね。

 以上から、クレアウィルは来世を否定するために「伝道の書」を引用しているんだけど、その主張の当否は「来世」の定義如何によるんだな。「来世」を福音的な肉体の復活と定義するなら、それは確かに旧約聖書によって否定されているね。

 だけど問題はそう単純ではないんだ。マクグラスの主張を細部までよく読むと、「聖書の一般的な型」ではなく、「聖書的な見方の一般的な型」という言い方をしてる。これはどういうことか? 

 私見では、マクグラスは「聖書的な見方」という言葉で、旧約と新約を統合する見方を示しているんだな。つまりユダヤ教が肉体を可滅とし現世肯定的であるのは前から分かり切ったことで、新約による福音は、常にそのことを信仰の糧としてるんだ。福音の信仰にとって旧約の悲惨が必要なんだな。旧約聖書を無視して来世が存在することを単純に信仰するのは真の信仰ではなくて、むしろ旧約聖書のとおり来世が存在しないのは確かなんだ。それはキリスト教徒にとっても確かなことなんだ。だって旧約聖書も聖書の一部として、神の言葉だからね。

 にも関わらず来世が存在するというのは明らかに不合理なんだけど、だからこそ、人知を超えた福音というわけだ。

 これを「不合理ゆえに吾信ず」なんて言っても、現代人は失笑するだけだろう。そんな不合理を信じてるからこそ、神は妄想と偏見を生み出す原因でしかない。カントはそう考えて神から理性を自律させたわけだ。

 だけど信仰は不合理だけど非理性じゃないんだな。キリスト教徒にとって、信仰とは理性の完成なんだ。敬虔なキリスト教徒自身はそんな主張はしてないんだけど、門外漢として勝手に言わせてもらえば、福音は高次言語なんだな。つまり、ユダヤ民族を含めた人類史の悲惨それ自体は福音のシニフィアンであって、シニフィエとしての福音じゃない。

 矛盾不合理といえば、神の子が十字架上で死んだという歴史的イエスこそが最大の矛盾であって、それを信仰の根底にしてるんだから、旧約と新約との矛盾なんて大した問題じゃないんだな。またヒロシマアウシュビッツや民族紛争など、現代人には福音の不在としか見えない世界であっても、それら全部を含めて人類史それ自体が福音のシニフィアンなんだ。だからそれが福音なき世界であっても一向に構わない。それとは別にシニフィエとしての福音があるからだ。彼らが「ケリグマのイエス」というのはシニフィエとしての福音だと私は思う。「歴史的イエス」は福音のシニフィアンだから矛盾しててもいい。「ケリグマのイエス」が福音のシニフィエとなるからだ。それが高次言語としての福音だね。その全体がいかなるものか、無信仰者の次元の低い言語で説明することは不可能だな。これは門外漢としての単なる私見による憶測に過ぎない。

 だからキリスト教徒の信仰は、クレアウィル程度の論証では1ミリも揺るぎはない、と私は思う。それどころか、過去・現在・未来においていかなる思想が現れようとも、信仰は微動だにしないはずだ。

 信仰というものが無神論やサドの作品から顔を背けることだとしたら、それは確かに非理性的態度だと思うけど、高次言語としての福音を信仰するということは、そうした無神論やサドの作品自体をシニフィアンとして、そこにいかなる福音的意味があるかを探求することでもあるんだな。だから信仰は思考の放棄ではなくて、むしろ思考の徹底遂行だ、と私は思う。