コンケプチオの読書日記

Une vie consacrée à la lecture.

労働力の価値について

 経済について考えるときは常に全体との関連を考慮に入れる必要がある。個別企業をイメージして利潤を考えると間違えることになる。第一、その企業の利潤は自分だけで得ているわけではない。他の企業(生産財の供給者、流通業者等々)の協力によって得られているわけだ。そうしたネットワークがなければ利潤は得られない。

 ところが商品・お金というヤツは、個人・法人の所有権として他の関係を一切排除する。たとえ取引企業が倒産しても、代替企業が見つかれば問題はない。だから、企業利潤はあたかも単独の企業努力によるものと勘違いしてしまうんだな。しかし分業している限り、同語反復だけど他の企業に依存している。ということは他の企業も儲かって存続してもらわないと困るということだ。

 もちろん資本主義において博愛精神は稀少だから、その問題解決は自由かつ熾烈な競争による利潤率の平均化ということで達成されることになる。確かに特定企業や特定業種の利潤率が高いのは事実である。が、それは参入障壁によるものであって、資本移動に障害がなければ、利潤率は必ず平均化する。それは実体経済という拘束をあまり受けないファイナンスの世界では「効率市場仮説」として知られている。技術が参入障壁になっているなら、技術をもっている企業を買収すればいいだけのことだ。

 こんな常識をあえて指摘するのは、マルクス寄りの評論家でさえ、価値は労働力が生むのだから、人件費の比率が高い人材派遣業が一番儲かるなどというアホなことを言ってるからだ。もちろんそれは本人も自覚して冗談で言ってるのだろうけど、マルクスはそんなことは言っていない。利潤は個別企業単独で得られるものではない。経済は人材派遣業だけで成り立っているわけではない。もし人材派遣業の利潤率が高く、さらに参入障壁がないならば、そこに資本が集中してしまい、その人材派遣業にとって派遣先の企業がなくなってしまう。そうした事態が生じるのを、資本間の自由競争による利潤率の平均化で回避しているわけで、それがマルクスの言う平均利潤率だ。

 労働者が生み出した剰余価値がどのように資本に平均利潤として配分されるか、一つ思考実験してみることにしよう。

 例えばロボットによって完全無人化した製造業者Aを考えてみよう。この場合、労働者がゼロだからその企業は剰余価値を生み出していない。しかし、その企業にロボットを供給している製造業者Bは労働者を雇っている。ということは無人の製造業者Aが労働者を雇っていないのは、AとBとの分業による外観に過ぎないことが分かる。無人製造業者Aとロボット供給業者Bは一体となって経済活動をしているからだ。

 それは大企業の中に無人の部門があって、それを企業として独立化させたようなものだ。この世に労働者が存在する限り、たとえ無人の個別企業がどれだけ出現しても、それは必ず資本間の自由競争によって、他の企業の労働者が生み出した剰余価値が「平均利潤」として分配される。そうでないなら分業それ自体が成り立たない。結局、世界で分業している企業同士を一つの経済活動主体とみなせば、その主体において生じた「剰余価値」が、自由競争によって分配されるわけだ。

 思考実験の長所は極限まで考えられることだ。ではさらに無人化が進んでロボットとAIによってすべての労働者が完全に不要になればどうなるか? そのときは、商品価値が空気や水と同様にゼロになるのか?

 マルクスの言うとおり、生産力が上昇すれば商品価値は下がり、無人化によって商品価値は限りなくゼロになるが、それを購入する労働者もゼロになってしまう。

 実際、そこまで極端でなくても現代社会はそうなりつつある。にも関わらず、資本主義が順調に存続しているのは、社会が社会である限り人間同士の協力関係はなくならないからだ。

 製造業に占める労働者の比率がたとえどれだけ低下したとしても、製造した商品を消費者に届ける運輸・流通は必要だ。で、マルクスは流通業については剰余価値を否定しているけど、運輸業については生産労働だと認めている。生産者から消費者への商品移動という視点に立てば、運輸・流通は経済活動主体として一体であるとも考えられる。商品移動がなくならない限り、商品価値が空気や水と同様にゼロになることはないだろう。

 ところで数理マルクス経済学が証明した「マルクスの基本定理」のキモは、利潤が正であれば搾取が存在するという当たり前のことではなく、いかなる市場価格、賃金水準でも利潤が存在する限り搾取が成り立つということだ。これは一見素晴らしい成果のように思える。独占資本主義であろうが、完全自由市場であろうが、いかなる条件下でも普遍的に搾取が成り立つことを証明したからだ。その成果により主流派経済学とマルクス経済学との摺り合わせが可能になった功績は大きい。

 にもかかわらず疑問を感じるのは、賃金が労働力の再生産費によって規定されるという条件をはずしているからだ。つまり労働者階級の再生産を無視している。搾取が労働力再生産費を浸食して無制限に拡大するなら、ブラック企業のように短期的・個別的には繁栄したとしても、長期的・総資本的には資本主義は存続しえない。一国の総理が賃金上昇を訴えるのは総資本を代表しているからだ。

 なぜそのような証明が可能になったのかと言えば、結局「必要労働」を単に変数に置き換えているだけで、それが労働者階級の再生産に必要な労働であるという条件を無視しているからだ。最初から無視して証明しているから、その証明は制約条件を無視できるに過ぎない。

 それはまた技術革新による省人化のイデオロギー的反映でもあるかもしれない。つまり一国の総理が賃金上昇を訴えても、資本家があまり本気にならない理由は、たとえ労働人口が減少したとしても技術革新によって克服できると考えているからだ。だから賃金率は合意さえあれば、いかなる水準でも構わない。たとえ所帯をもって子育てするにはほど遠い賃金であっても一向に構わないというわけだ。

 しかし商品が消費者に行き渡るためには労働者階級の再生産を必要とする。社会が社会である限り人々の協力関係はゼロにはならない。

 

 

幸福とは何か?

 まあ、あまり「・・・とは何か?」を連発すると、なんかニーチェのいう末人みたいだけど、アタシはどうせ末人だから末人に徹してみるのも一興であろう。

 幸福について考えてみたくなったのは、中沢新一の幸福観に刺激されたからだ。それによると、幸福とはhappinessや bonheurの訳語であり、欧米の幸福観はhappenやbon+heur(善い時)が示しているように時間的意味がある。元々、日本人にはそういう時間的意味の幸福観がなかったので、明治期に古代から伝わる「幸」と仏教的な「福」を組み合わせて「幸福」という造語にしたということだ。

 しかし日本語の「幸福」には時間的意味がなく、「幸」の語源は「海の幸」「山の幸」が示しているように、狩猟民族にとっての獲物を意味しているし、「福」は七福神のように神を表している。その一人の布袋様は袋から財を与えてくれるわけだから、なんか日本語の「幸福」を語源まで遡ると物欲まみれのような感じがする。

 「幸福」と言えば、おそらく多くの人は物欲ではなく愛のようなものを連想するだろうけど、中沢新一の見解を参照すると、それは「幸福」の語源的意味とさほどかけ離れたものではないようだ。

 「海の幸」「山の幸」を狩猟民族の獲物、つまり物だから物欲だろうと捉えるのは現代人の発想であって、古代人にとってそれは動物の神でもあり自然の神でもあるカミからの贈り物ということになる。「幸」(さち)の「さ」は自然界と人間の境目を意味するらしい。で、贈与には「マナ」とか「タマ」という霊力の移動を伴うということだ。

 こんな説明を読んでいると、「だって、オレ古代人じゃないし・・・」と思ってしまうんだけど、思い当たるフシはある。贈り物をもらって嬉しくなるのは、単に欲しいモノが手に入ったからではなく、贈り主の愛とか感謝が感じられるからなんだな。どんな小さな贈り物でも、それが贈り物である限り、宝くじが当たった「幸福」とは異質のものがある。「宝くじ」の賞金には愛も感謝も伴っていない。むしろハズレた者の恨みがこもっているかもしれない。

 古代人にとって「幸」とは、自然の神からの贈り物ということで、神から愛されているといえば語弊があるけど、贈与とともに「タマ」が移動するということは、現代風に言えば自我が解放されて自然の神と触れあう状態のことであろう。アニミズムがそういう心象をもつのであれば、たしかに自然の神から「海の幸」「山の幸」を贈与されることは幸福である。

 こうしてみると贈与に伴う「タマ」の移動も現代的意味での「愛」も、自我の解放として、古代人の「融即」のように対象と合一することが根源にあるようだ。それが「幸福」の意味だと思う。言語の根源に隠喩・換喩がある限り、現代人も「融即」と無縁ではない。「人生は旅のようだ」というけど、いやいや、人生と旅は別のものだろう。別のものが一つになるのであれば、「私は神のようだ」と言うこともできる。神バンドというのもある。「手が足りない」というのは、身体の一部である「手」で人一般を意味する換喩表現だ。だから「猫の手も借りたい」というのは、猫も働けという意味で、別に猫の「手」を指しているわけじゃない。そんな手を差し出されても迷惑する。(と私は思うんだけど。)

 ところで私見では欧米の幸福観も日本とさほど異なっていないように思える。同じように神話時代を経由しているのだから当然だ。

 bonheurというのは確かに「善い時」という時間的意味があるけど、ラテン語由来の félicité (至福)というフランス語もある。これなどは語源的に肥沃を意味するのだから、「肥沃」を自然の純粋贈与と捉えるならば、日本語の「幸」の語源的意味と近いのではないか。逆に「仕合わせ」はbonheurに近い意味であろう。

 幸福を正面から論じている哲学者はアリストテレススピノザだけど、どちらも現世利益ではなく「観照」とか「第三種の認識」に到達すること、つまり哲学することが最高の幸福であるとしている。それは学者の幸福みたいだけど、単なる認識の喜びとして幸福を捉えているのはなく、神と類似した生活を送るというか、神の本質の分有として神と合一することを幸福としているわけだから、上述の「幸福」の意味に近い。スピノザの言うコナトゥスとは自己の生に執着することではない。自己を変様させる創造としての本質力に固執することだ。それは自我の解放と矛盾しない。

 宗教上の幸福も、自我というボーダーを撤廃することにあることを勘案すると、概ね古今東西の「幸福」の共通概念としてエクスタシーによる合一を位置づけることができる、と私は思う。仏教の瞑想による「空」とか、イゾルデの忘我など、様々な状況証拠から無意識が至福であることは、誰もが直観しているはずだ。ただ意識が意識であるために、そのことを抑圧しているに過ぎない。

 まあ、エクスタシーはいいんだけど、その前に細かく分別する地道な作業をしなければエクスタシーにも到達しない。分析がアナロジーを生み、アナロジーを元にして分析する。あくまで分別があったうえでの合一だ。おそらく数学者は語らないだけで、エクスタシーを感じていると思う。分析哲学ウィトゲンシュタインぐらいになると魅力がある。本人の最後の言葉どおり、素晴らしい人生だ。こうして分別もなく雑に語る者が幸福から一番縁遠いんだな。

 

 

中沢新一の思想

 「関係」という概念は何の疑問もなく使用されてるんだけど、よく考えてみると分からないところがある。そりゃ、大小関係、包含関係、因果関係・・・と色んな種類の「関係」があって、大小関係は自明と感じられるけど、因果関係についてはカントとヒュームの対立のように哲学的議論がある。

 正面切って関係とは何かと問われると、答えに窮する。にも関わらず、因果関係以外は概ね自明と思われるのは、関係項の知覚によって関係を把握しうるからだ。

 例えばAとBとの大小関係は、関係項のAとBの知覚によって明らかだ。これに対し因果関係は関係項の知覚では説明できない。関係それ自体は知覚できないからだ。

 そうした違いがあるにせよ、すべての関係を把握するうえで共通しているのは、AとBを比較することである。自明と思われる大小関係、包含関係等もAとBの比較可能性が前提となっている。

 ところでこの「比較」というのが妖しい。AとBを特異性として捉えるなら比較は不可能であるはずだ。「特異性」という言葉自体が曖昧だけど、AとBを特異性として捉えるということは、要するにBを非Aとして捉えることでもある。するとAと非Aとが比較不可能であることは自明だから、Aと非Aとの間には大小関係も包含関係も、いかなる関係も成立しない。

 とするならAとBとの関係は両者を比較しうる限り、Aと非Aとの関係ではない。両者の間に何らかの共通性があることになる。大小や包含関係の場合、その共通性とは同一空間に属していることだと短絡してしまうけど、それは問題を、Aと空間、Bと空間との関係にすり替えているに過ぎない。各個体と空間との共通性が解明されない限り、空間によって関係を説明することはできない。むしろ「空間」とは関係の総体の別称であり、関係が「空間」を前提としているのではなく、逆に「空間」が関係を前提としている。

 つまり「比較する」ことは、AとBとを区別しつつ、同時にAとBを共通するものとして把握しているわけだけど、「区別」と「共通」はAと非Aのように両立しないはずだ。二項原理を厳密に適用するなら、一切の比較は不可能になる。

 長い間、私はそのことを疑問に感じてたんだけど、中沢新一の著書を読むことで、概ね答えが見えてきた。

 「比較」に潜んでいるアポリアは、無意識と意識がセットになってると考えると回避できる。つまり「関係」とは無意識と意識の二重性から生じたものなんだな。言い換えれば意識の論理のみによって「比較」を説明することはできないということだ。

 神話的思考は異なったもの同士を一つのものとして重ね合わせることに特徴がある。ブリュルの言う「融即」としてよく知られてることだけど、中沢新一はそれを無意識と繋げている。つまり神話的思考は、無意識が抑圧されずに意識にのぼったものだけど、無意識そのものじゃない。無意識は完全な同一化だから、そもそも異なったもの同士という表象は存在しない。あくまで無意識が意識にのぼったときに「融即」が生じるんだな。夢のように。

 だからAとBを意識対象として区別するなら比較できず、無意識もまたAとBが同一になっていて比較できない。AとBとの比較が可能になるのは無意識の同一が意識の区別に重なる場合のみだ。そして神話的思考の「融即」は無意識に近く、現代人の思考は意識に近いという違いがあるだけで、無意識と意識の重ね合わせが「関係」概念の根源にあることでは同じということになる。

 こうしてみると中沢新一の思想は吉本隆明に近いことが見えてくる。神話的思考とアフリカ的段階の重視が共通しているのは表面的な類似であって、もっと根源的に心の捉え方が共通している。例えば吉本隆明は「心的現象論序説」で次の式を提示している。

 

    原生的疎外 - 純粋疎外 = 関係意識

    (引用者:移項すれば、

    原生的疎外 = 純粋疎外 + 関係意識)

  

  これは原生的疎外を無意識、純粋疎外を意識と解するなら、右項の区別する意識(純粋疎外)はそれ自体では関係意識を持つことができず、左項の無意識を背景基盤として必要とすることを意味しているわけで、まさに上述したことと同じことを示している。

 昔、中沢新一の著書を読んだ時は、アナロジーで始まりアナロジーで終わる論考が果たして学問と言えるのかという疑問を感じたこともあったんだけど、それは部分的に捉えた印象でしかない。すべてを読めば、アナロジー同士が精妙に組み合わさって壮大かつ繊細な説明モデルを形成していることが分かる。そのモデルが現代社会を分析するうえで有効であることも納得できる。アナロジーは神話的思考でもあるから、中沢新一は確信犯としてそれに固執しているわけだ。このことは初期著作から一貫していてブレがない。話題が豊富で面白すぎるという余得まである。

 

 

トリスタンとイゾルデは私である

 

  Doch unsre Liebe, heißt sie nicht Tristan und Isolde ?

  Dies süße Wörtlein : und, was es bindet, der Liebe Bund, 

  wenn Tristan stürb, zerstört es nicht der Tod ?

 でも私達の愛は「トリスタンとイゾルデ」という名前ではないでしょうか?

 この甘美な言葉「」、それが繋いでいる愛の絆

 それはトリスタンが死ねば解体してしまうものではないでしょうか?

 (ワグナー「トリスタンとイゾルデ」第2幕)

 

 やっぱ、ここはワグナーのトリスタンの中でも一番赤面するっていうか、要するに惚気じゃん!と言いたくなる。音楽でもなければ、とても聴いてられない甘ったるいセリフではある。

 しかしよく考えてみると深遠なんだな。ナルシシズムみたいなのに妙に理屈っぽいというか、ヘンな感じがするんだけど、死のフラグを立てて後で回収してるわけだから、そこは大目にみてもいいだろう。

 この「と」undから連想されるのは、ドゥルーズの離接的総合としての「と」etでもあるんだけど、むしろワグナーが音楽を神話と考えていたことを勘案するならば、「トリスタンとイゾルデ」というのは男性と女性を重ね合わせた二重存在として考えられる。

 つまりプラトンの「饗宴」に出てくる、ゼウスによって分断される前の二体一身の男女だ。あるいはユングの言うアニマとアニムス、この際ターミノロジーはどうでもいいんだけど、要するに神話的元型としての両性具有だ。

 もちろん現実の男女は個体として二つに分かれているわけだから、死によって一つに結ばれるというのは、別にワグナーに限らず古今東西、普遍的にみられる陳腐な発想だ。ワグナーの独創は「愛の死」にあるのではなく、生死にかかわらずトリスタンとイゾルデが常に一体だというところにある。それが「と」undだ。

 で、このワグナーの思想には生物的根拠がある、と私は思う。それは忘れがちではあるんだけど、人間は誰もが例外なく男女の性的結合から誕生したという事実なんだな。男性と女性の二重存在というのは現実にはあり得ないけど、自己の生誕の根源を遡ってみると、自己こそがそうした二重存在から発生したことは明らかだ。だから自己は男性でもあれば女性でもある。自己が二重だから自己愛や同性愛が生じるのも当然だ。異性愛の人はただその原事実を抑圧してるだけなんだな。すべての人間はトリスタンとイゾルデの二重存在を生きている。

 もしもトリスタンとイゾルデとの間に子供が生まれていたなら、その甘美で神話的な「と」の二重存在は子供として現働化したわけだけど、子供の方は自分が「と」であることに気づかない。自己が自己である限り、その原事実を忘却することになる。ロートレアモンの次の言葉は誰もが思い当たるんじゃないかな。

 

 Je suis fils de l'homme et de la femme, d'après ce qu'on ma dit. Ça m'étonne... je croyais être davantage ! Au reste, que m'importe d'où je viens ?

 人から聞いたところでは、私は人間の男と女の息子ということだ。こいつは驚いた・・・自分はそれ以上だと思っていた! そもそも、私がどこから来ようがいいではないか? (「マルドロールの歌」石井洋二郎訳)

 

 まったくそのとおりで、自分が「男と女の息子」であると考えることは自己喪失でもある。この問題について、ヘーゲルほど深く考えた人はいないだろう。

 

 Die der Kinder aber gegen die Eltern umgekehrt mit der Rührung, das Werden seiner selbst oder das An-sich an einem andern Verschwindenden zu haben, und das Für-sich-sein und eigene Selbstbewußtsein tzu erlangen, nur durch die Trennung von dem Ursprung - eine Trennung, worin dieser versiegt.

 子どもたちが両親に対してもつことになる敬愛の念が触発されるのは、いっぽうこれとは反対の感慨によってであり、じぶん自身の生成あるいは自体的なものを、他の者が消失してゆくことにおいて手にすることにかかわる。子どもたちはかくて自立的存在と固有の自己意識へと手をのばすわけであるが、それは根源からの分離を介するほかはない。これは、根源が枯れはててゆく分離なのである。(「精神現象学熊野純彦訳)

 

 かくしてトリスタンとイゾルデの「と」は、子どもという一箇の「疎遠で固有な現実」となり、他方で子どもにおける自己意識は、「と」という根源が枯れはてること、つまり両親であるトリスタンとイゾルデの死による消失によって得られることになる。

 このような親子の交錯はまさにヘーゲルが時間を前提としているからであって、ヘーゲル弁証法とは現実的矛盾を時間によってアリストテレス的に合理化したものに他ならない。同一時においてAと非Aが同一なら狂気となるが、異なる時間では合理的に成り立つ。

 だけどヘーゲルは自分でも気づかずに、現実の矛盾が示す狂気に限りなく近づいているようだ。自己意識が確立するのは子どもの誕生と親の死が契機になっているという洞察はロートレアモンにも通じる超論理であって、飼い慣らされた論理的矛盾とは異なっている。それは記述において時間的差異が消滅するからであろう。

 ヘーゲルから時間をマイナスすれば理性は狂気になる。自己意識が消失する代わりに二重存在の元型が永遠となり、神話が現実となる。私は母であり父である。私はトリスタンでもなければイゾルデでもない。同時にトリスタンとイゾルデは私である。

  時折、私は分裂症こそが無意識の至福ではないかというリアルな「感慨」をもつ。なぜならそれは単なる妄想ではなく、生物的根源的事実であり、自己意識の方が不幸な妄想だからだ。

 

 

ハイデガーの存在忘却とは何か?

 理論的探究の歴史を振り返ってみると、「見えないもの」で「見えるもの」を基礎づけることが根本的特徴として共通しているようだ。その「見えないもの」言い換えれば知覚対象となりえないものは様々な名で呼ばれている。それは例えば「神」「魂」「時間」「物自体」「意志」「価値」「無意識」「語りえぬもの」「現実界」「潜在性」等々だ。それらは決して知覚対象として見えるものではない、しかし見える知覚対象を基礎づけるものと考えられている。

 だけどそもそも何故そうなのか、ということは誰も考えないんだな。それはそういうものだとしてただひたすら探究している。人間がそれを当たり前と思うのは、おそらく言語に起因するのだろう。つまり言語においては、見えない意味が見える言葉によって示されているからだ。

 ハイデガーのみが初めて「見えないもの」と「見えるもの」の関係それ自体を存在への問いとして主題にしたわけだ。彼は両者の関係を存在者(現われ)と存在(現象)との関係として捉えている。

 ハイデガーのターミノロジー翻訳語では誤解を招きやすい。特に「現象」と「現われ」は、同じ「現」を含んでいるので混同しやすい。これはハイデガー自身がPhänomen とErscheinungの区別を力説してるんで、今さら混同する人はいないだろう。だけどそれが動詞になると、日本語では「現象する」と「現われる」になってしまい、両者が同じだと思い込んでしまうんだな。

 だけどハイデガー的意味で「現象する」とは、現われることではなく、「現われ」において自らを示すことだ。現象は知覚対象ではなく目に見えるものじゃない。だからハイデガーが存在を現象と呼んでいることに違和感を覚えるとすれば、それはハイデガーの言う現象を知覚対象と勘違いしているからだ。知覚対象とはなり得ない現象が知覚対象である「現われ」において自らを示している。だから存在が現象になり、存在者が現われになるわけだ。そして存在忘却とは、存在(現象)を存在者(現われ)と取り違えることである。

 これを理論的探究の歴史についてあてはめてみると、例えば「神」は知覚対象ではない。神学においては、人間の自然理性は恩寵がない限り神を知覚することはできないとされている。だから歴史的イエスは「現われ」であって、神はその「現われ」において自己を示しているのであり、それがケリグマのイエスだ。したがって歴史的イエスを神そのものと混同し、考古学的な聖遺物を神格化することは、存在者(現われ)を存在(現象)として混同していることであり存在忘却である。ただ神学的探究は歴史的イエスとケリグマのイエスを区別している限り、自ら意識することなく存在者と存在を区別しているのは確かである。

 あるいは価値は知覚対象ではない。価値それ自体を見ることはできない。しかし価値は金という使用価値の現われにおいて、自己を示している。だからといって価値が金そのものだと思うのは、価値(現象)を使用価値(現われ)と混同していることであり、そうした金の物神崇拝は存在忘却である。

 まあ、どれも同じパターンだから繰り返さないけど、こうしてみると真正な理論的探究は自ら意識することなく存在者と存在を区別しているのであって、ただ表立って存在忘却を問題にしていないだけのことなんだな。

 しかしそもそもなぜ存在忘却ということが起こりうるのか?

 それはまたなぜ現存在が頽落しうるのかという問いでもある。それは現われにおいて現象が自己を示さないことがありうるからで、それが仮象だ。

 仮象は「現われ」において現象とは別のものを示している。現象と別のものといえば、それは一周回って「現われ」でしかない。つまり仮象とは、現われにおいて現われが自己を示すことなんだな。だから現象と現われを混同することが起こりうるわけだ。

 具体的に現存在についてみると、現存在(現われ)において実存(存在でもあり現象でもある)が自己を示すことが本来性である。だけど現存在(現われ)において実存が実存とは別のもの、つまり現存在自身として示されることもある。それは現われとしての現存在を実存と取り違えることであり、目に見える人間を実存と取り違えることだ。それが非本来性であり、言い換えれば仮象としての現存在である。

 

器官なき身体とは何か?

 以下は「ドゥルーズ『意味の論理学』の注釈と研究」(鹿野祐嗣著)の一論点を自分なりにパラフレーズした不正確な感想であることをあらかじめお断りしておく。だけど一読者がどんな刺激を受けたか記録しておくのもワルくないだろう。

 本書を読んでいて連想したのは、maximum the hormonの「hungry pride」と埴谷雄高の「死霊」なんだけど、それは抽象的で精密な議論が実はかなり具体的なことを述べてるんじゃないかという気がしたからだ。

 ドゥルーズの描いてる世界は独断論的で意味不明の造語に満ちてるように見えるんだけど、本書を読むと精神分析の膨大な知見に基づいたものであることが分かる。それもラカンだけでなくクラインやその批判者まで精神分析の枢要な議論をすべて踏まえたうえで、その理論的アポリアを解決するためにドゥルーズは「器官なき身体」という概念を創造したんだな。アルトー由来の造語で文学的視点から外在的に批判してるんじゃない。精神分析と同じ土俵で内在的に批判してるわけだ。それは先行するモノグラフの諸研究からもうかがえる。スピノザ論などは専門家達が道標と仰ぐぐらいのレベルだから、精神分析の批判も同水準とみて間違いないだろう。

 生後四ヶ月ぐらいの幼児の世界は破壊衝動と死の本能がせめぎ合っている世界とされているんだけど、それは勝手な妄想じゃなくてクラインなどによる観察に基づいてるんだな。まだ性衝動が自立化してない世界だ。性衝動ってのは不在対象のイメージを伴うから自我が成立する以前では、食欲などの自己保存衝動から分離していないわけだ。

 食べるという行為は自己保存衝動であると同時に、対象を噛み殺すという破壊衝動でもある。これは成人の世界とは無縁のように思えるんだけど、成人もまた毎日食事しているわけで、その都度、牛や豚、魚、植物などを「食い殺して」るんだな。まあ牛肉は高いから、我が家ではあまり牛は食い殺してないけどね。それが残酷だと意識されないのは料理によって生物が食物に変換されてるからだ。

 「hungry pride」の映像では動物が生き物を食い殺してるから破壊衝動マル見えなんだけど、人間は料理文化によって破壊衝動から距離を置いてるわけだ。でもそれは見せかけでしかない。ライオンが料理していたら温厚に見えるかもしれないけど、やってることを全体としてみれば残酷であることに変わりはない。人間も同じだ。哲学なんかやっていても、やっぱ毎日生き物を食い殺してることに変わりはない。しかも幼児の世界は自我が成立していないから破壊することは破壊されることでもある。だから破壊衝動は「分裂する身体」でもあり、「器官なき身体」は「分裂する身体」を前提としている。分裂しているからこそ「器官なき身体」として融合し、両者は離接的総合として一つになっている。だけど破壊しないってことは食べないことであり死に繋がるんだな。だから「器官なき身体」が死の本能に相当するわけだ。言い換えれば死の本能としての「器官なき身体」は破壊衝動から距離を取ることであり、文化の芽生えみたいなものだな。「死霊」に見られるジャイナ教の議論は、食べないと言う「死の本能」と文化が直結していることを純粋に示しているようだ。

 で、対象を破壊しないってことは、対象の表面にとどまることであり、皮膚と皮膚の接触へ衝動が分離することでもある。つまり食べるという行為には対象を舐める・しゃぶる行為が付随してるんだけど、それが口唇性欲として、皮膚同士の接触への衝動として自立化するわけだ。こうしてみると幼児の「おしゃぶり」は、破壊衝動から距離をとることでもあり、文化の芽生えとして重要な小道具かもしれない。

 とはいえ舐める・しゃぶる行為は食い殺す行為から完全に分離してるわけじゃないから、性衝動の背後には破壊衝動がある。性衝動は自我を伴うとはいえ、その自我は不安定でありSMの世界は境界線のようなものだ。性衝動抜きの破壊衝動に転落するとそれはSMではなく精神分裂になる。逆に破壊衝動を完全に排除してしまうと、ジャイナ教のような死の本能になる。

 ところで精神分析の理論的アポリアというのは、フロイトの一次ナルシシズムのことだ。フロイトは診断結果からナルシシズムを自我成立以前の一次と成立後の二次に区分したんだけど、自我成立以前となると一次ナルシシズムの備給対象が何になるのか不明なんだな。だって自我が存在しないわけだからね。またクラインは自我成立以前の妄想ポジションを主張するんだけど、ラカンはそれを否定している。これらの論点はいずれも精神分析における自我の生成論に関わっている。

 精神分析において自我は、ファルスによる統合として具体的に考察されている。我思うゆえに我在りなどという高踏的な議論じゃない。自我というのは、要するに自分の皮膚の表面全体が一つのものであるというイメージなんだな。確かに外界と内界が区別されるのは皮膚の表面だ。だから対象を破壊せずに、皮膚の表面にとどまる性衝動が自我の生成に不可欠になる。ところが性感帯は口唇、肛門、乳首、性器というように、特異点として分散している。それぞれの性感は異なっているから、そのままでは一つの身体の表面として統合されない。それはアルルカン(道化師)の服の模様のようなものだ。ファルスによる自我の統合とは、分散する性感帯を性器主導によって一つの表面として統合することなんだな。だからファルスはペニスではなく、ペニス主導によって統合された身体表面のイメージだ。しかし前述のように性衝動は破壊衝動を背景としているからファルスの線、つまり身体表面の統合は不安定であり、統合に失敗すると精神分裂になる。逆に「死の本能」によって破壊衝動から距離を取ることで安定するわけだけど、それは性衝動の否定になる。それが去勢だ。身体表面のファルスの線が去勢の痕跡に代わることで、ファルス的自我が象徴的自我になる。これがフロイトに還れというラカンの見解だ。

 これに対してドゥルーズは、ファルスによる統合以前にも自我が部分自我、微小自我として存在するとしている。統合によって初めて自我が成立するんじゃなくて、口唇、肛門、乳首、性器などの性感帯ごとに部分自我が存在するというんだな。そうすることでファルスによる統合自我成立以前の一次ナルシシズムや妄想ポジションの存在がうまく説明できる。部分対象というのは、部分自我がもつ対象不在のイメージというわけだ。例えば口唇性欲のおしゃぶりには、乳房の不在をイメージとしてもつ部分自我が存在している。特異点ごとに異なる部分自我、微小自我が存在していて、「器官なき身体」とはそれらの特異点としての微小自我の離接的総合というわけだ。だから「器官なき身体」は物理的身体的次元に近い最初の自我であり、著者によるとドゥルーズは自我を五段階に区分して自我の生成論を展開しているとしている。著者の説明を読んでると、無機物から意識が生成する唯物論的仕組みとしてドゥルーズはかなりイイ線いってる感じがする。ドゥルーズの見解は自我成立以前の妄想ポジションを認める点で、ラカンよりもクラインに近い。というか妄想ポジションの正当性を理論的に完成させているんだな。

 本書は煩瑣な引用をなるべく抑えて巻末にドゥルーズ文献の参照頁が詳細に記載されている。本書を読みつつ、ドゥルーズの該当頁を読むと、意味不明だった文が明確な意味のあるものとして読めることに驚きを覚える。ドゥルーズを理解したい人なら最初に読むべき本であると思う。

 

ハイデガーの現象概念の特異性

 私は語学があまり得意ではないんだけど、重要と思う箇所は原文と照合することにしている。原文では異なった言葉が翻訳では同一語に訳されていることがあるからだ。

 その最たる例がハイデガーPhänomenとカントのErscheinungで、どちらも「現象」と訳されている。

 通常「現象」という言葉から連想されるのは、目の前に見えている対象であって、まさにカントは直観の対象を現象と名付けているわけだから、一般に理解されている「現象」の意味はカント的意味に近い。

 ハイデガーもまた「存在と時間」で「現象」Phänomenについてギリシャ語の語源まで遡って、「みずからを示す」「あらわなもの」「あるものが自己において見えるようになること」(中山元訳)などと説明している。

 これって、カント的意味に似ているよね。まさに対象があらわに見えていることが「現象」なんだから。ハイデガーとカントの現象概念が微妙に違うことは文脈から分かるんだけど、同一語だから大元では似たようなものじゃないかと誤解してしまう。

 だけどハイデガーはあくまで古代ギリシャ人の現象概念を叩き台にして、そこから自分流に「仮象」「現われ」「現象」を区別しているんだな。なんか光とか、開示という語感から現象を視覚対象と誤解してしまうんだけど、ヘーゲルの言うように完全な光は完全な闇と同一であって直接見ることはできない。光に照らされて見えるものは「現われ」であって光そのものとしての現象ではない。

 したがってカント的意味の現象Erscheinungハイデガーの用語では「現われ」であって現象Phänomenではない。両者は似ているどころか月とスッポンであって、そのことを踏まえないと、存在論的差異の意味はⅠミリも分からないことになる。つまり存在者とは「現われ」であって、存在が「現象」に相当するわけだ。だって存在論とは現象学であるとハイデガー自身が言ってるわけだから、存在が「現象」であるのは明らかだ。

 ズバリ言えば、ハイデガーの現象は現れないんだ。だって「現象」と「現われ」は別ものだからね。ハイデガーを含めて存在=現象それ自体を見たものは誰もいない。「自己において見える」というのは、自己自身を直観対象として見させるってことじゃない。むしろ目に見える「現われ」において自己を示すってことなんだな。光で明るみになった「現われ」において光という現象が自らを示しているわけだ。それは目に見える存在者において目に見えない存在を示すことでもある。実に奇妙なんだけどハイデガーの言う現象は目に見えるものじゃない。エエーッ!と思うかもしれないけど、そう解釈すればハイデガーの言ってることがよく分かる。彼が「存在者」と「存在」との差異という場合、それは「現われ」と「現象」との差異に照応している。

 そこんとこをハイデガーは語源の探究から始めるもんだから話が抽象的で分かりにくい。そこでハイデガーの言う「現象」がなんであるか具体例で説明しよう。

 たとえば「無意識」だ。「無意識」を見ることは決してできない。だけど「意識」という現われにおいて、「無意識」が自己を示している。だから「無意識」はハイデガーの定義する現象に当てはまる。現存在分析というのは、「現われ」としての現存在において示されている「現象」=実存としての無意識を解釈することになるわけだ。

 同様に「欲動」「意志」もハイデガー的意味での「現象」になる。

 あるいは「空間」と「時間」もそうだ。空間も時間も決してそれ自体としては目には見えないけど、知覚対象の運動(=現われ)において自己を示している。だから「空間」と「時間」はハイデガー的意味での「現象」になる。そのことは次の引用から明らかだ。

 

 Denn offenbar müssen sich Raum und Zeit so zeigen können, sie müssen zum Phänomen werden können

 空間と時間はそのようにみずからを示すこと、すなわち現象になりうるものでなければならない。(「存在と時間1」中山元訳139頁)

 

 引用から明らかなように現象が「みずからを示す」とは、目に見える直観対象として現象があらわれるということじゃない。あくまでそうした直観対象としての「あらわれ」(カント的現象Erscheinung)において空間と時間が「みずからを示す」わけだ。

 こうしてみると、カントとハイデガーとの関係が見えてくる。カントの言う「現象」はハイデガーの言う「現われ」(原文では両方ともErscheinung)であって、逆に直観形式としての「空間」「時間」こそがハイデガーの言う「現象」Phänomenになるわけだ。つまりカントは直観の対象を現象としたわけだけど、ハイデガーは直観の形式を現象としている。ハイデガーの言う現象が対象として目に見えるものではないとはそういうことだ。

 もちろん「無意識」「欲動」「意志」「空間」「時間」「存在」等々がハイデガーの定義する諸現象に該当するからといっても、それらは同一のものじゃない。ただ、それらが「現われ」(意識、身体運動、知覚対象、存在者)において自己を示す「現象」として共通しているのは確かだ。そしてそれらの諸現象を了解しているにも関わらず意味が分からないという点で「存在了解」と共通しているのも確かだ。ラカンフロイトハイデガーに共通点を見出したのはそのためだろう。

  以上から断定してもいいと思うんだけど、ハイデガーの言う「現象」は語感に反して決して直観対象として現れないんだな。誰もが薄々そう感じてたと思うけど、そろそろ誰かが断定してもいいだろう。文脈からそうとしか読めない。現われることのない現象というのも面妖だけど、それがハイデガーの現象概念の特異性だ。

 だからカント的現象がハイデガーの言う「現われ」であるなら、「現われ」の根拠である物自体こそがハイデガーの言う「現象」でもある。物自体が現象(=存在)であるとは奇妙だろうか? しかし存在了解とは存在を直観対象とすることが不可能であるにも関わらず、存在を存在者(=現われ)の前提として了解していることでもある。それはまさに「物自体」が認識不可能であるにも関わらず前提することと同じではないか。

 私の推測では、カントの直観形式としての時間は、ハイデガーの実存の時間性Zeitlichkeitに対応し、カントの物自体はハイデガーの言う存在時性Temopralitätに対応するのじゃないかと思う。

 そう解するとショーペンハウアーが物自体を意志としたのも納得できる。だけど意志に限らず「無意識」「欲動」「空間」「時間」「物自体」(さらにラカンの「現実界」を加えてもいいだろう)等々のハイデガー的意味での諸現象は、それぞれ異なりながら差異の離接的総合として「存在」と呼ぶことができる。それが存在の一義性だ。