コンサクレ退屈日記

Une vie consacrée à la lecture.

サルトル断想(その1)

 「存在と無」の緒論でサルトルは奇妙な議論を展開してるね。

 ここでサルトルは自分の立場は唯名論ではないと明言してる。だけど、可能態も本質もすべて現象あるいは現象の連鎖の道理であって現象一元論なんだな。ただし、個々の現象は有限だけど、諸現象の連鎖は無限だとして、他のすべての二元論を現象の有限・無限の二元論に置き換えたと言っている。

 これって、どうみても唯名論っぽいんだな。少なくとも実在論でないことは明らかだ。だって現象の背後世界を否定してるからね。実在論てのは物質なり観念が現象とは独立して実在するという立場だけど、それは本書では最初から否定されてる。

実在論ではないならば唯名論とどこが違うのか?

 サルトルは「本質」が「現れの継起を支配する明白な法則であり、諸現象の系列の道理」だと言ってる。

 

 L'essence d'un existant n'est plus une vertu enfoncée au creux de et existant, c'est la loi manifeste qui préside à la succession de ses apparitions, c'est la raison de la série.

(Sartre, J.P. (1943). L’être et le néant. Gallimard pp.12)

 

 これはやはり個々の現象の背後ではないけど、個々の現象とは別に「継起の法則」la loi「系列の道理」la raisonの実在を想定してるんだな。唯名論ってのは諸現象が存在するだけで、そうした「法則」や「道理」は実在ではなく人間の認識に過ぎないという立場だ。

 だから次に提起される問いは、サルトルの言う「明白な法則」la loi manifesteとは認識可能なのか否か、これだね。これが認識可能だとするなら唯名論と同じになってしまう。

 サルトルは一方で諸現象の系列la sérieを無限のものとしている。無限の系列でないと、現象が継起・反復しないからね。ということは、無限の系列全体の「法則」「道理」は認識不可能なんだな。人間知性は有限だから。

 つまり人間は自分が認識した範囲では、諸現象が継起する法則や道理が明白にmanifestされてるんだけど、系列の全体は無限だから主観的認識を超越する部分もあるってことなんだ。

 将来に向けて、現在から先は諸現象が未だ現れてないから、どうなるか分からない。そう考えるとサルトルの「本質」観は、過去から現在までに現れてる限りでは認識可能だけど、未だ現れてない未来を含む全体については認識不可能としてるわけだ。言い換えれば全体を認識することが不可能な「法則」「道理」が実在すると言ってるんだな。しかもそれは現象とは別のものじゃない。

 分かりやすくするために時系列的イメージを使ってしまったけど、要は有限の範囲では現象はすべて認識に還元され、無限まで想定すると現象の系列は認識を超越するというわけだ。比喩的に言い換えれば有限の立場では唯名論、無限の立場では実在論となるわけで、サルトルの本質観は分裂してるね。どこかクリプキの「クワス」の議論と似たところがある。

 で、私が奇妙に思うのは、その後の展開で、この現象の有限・無限の二元論が言及されなくなるってことなんだな。実に奇妙だ。だって、サルトルは他の一切の二元論をこの二元論に置き換えたと言うんだから、有限・無限の二元論の積極的意義をもっと展開してもらいたいと思うのが当然だよね。それがそうなってないんだな。その新二元論は不発に終わった着想なのか、それとも「存在と無」全体を扼してるのか?

 次の「反省以前的コギトと知覚の存在」では、もう最初から意識ありきで話が始まる。だから単なる主観-客観の対立図式を蒸し返してるみたいで、あまり面白味が感じられないんだな。だけど、その議論はサルトルの頭の中では、現象の有限・無限の二元論に基づいてるはずなんだ。そういう仮説的視点で、自分なりにサルトル流の新二元論によって意識が「対自存在」であることを導出してみたい。

 いいかい、最初にサルトルはすべての存在を現象としたんだ。だから意識ってのも当然、現象なんだ。問題は意識という現象の現れ方だ。それがポイントだと私は思うね。つまり、意識という現象の現れは無限の系列を持たない。それが意識とは何ものかについての定立的意識である、ということの本質的意味なんだ。意識自体が現象として無限系列であるなら、意識は意識しない不透明な部分を抱えることになる。だけど、意識は常に現象を定立している限りにおいてしか存在しないんだな。言わば無限系列を定立するだけで、それを定立している限りにおいて意識は有限なんだ。要するに現象の無限系列の有限的現前が意識なんだな。だから現象の無限系列が超越的存在であるのに対して、有限系列の意識が無になるのも当然だよね。意識は自己が存在すると定立した有限系列において無であり、自己ではない現象の無限系列を存在として定立する。それが意識は、あるところにあらず、あらぬところにある、という有名な対自存在の定理だ。その定理は、有限・無限の新二元論から導かれると私は思う。

 それなのにサルトルはバークリーやフッサールを持ち出して批判ばかりしてるから、新二元論の積極的意義が見えなくて話をはぐらかされたような気がするんだな。だけどサルトルの独自性はやはり新二元論にあるのであって、他の思想への批判じゃないと思うね。

  もちろんサルトルフッサールを踏襲して、意識存在の超現象性について言及している。だけど意識の「存在」とはサルトルにとっては、対象である現象の無限系列から借りた超現象性なんだな。だから結局のところ、意識は対象との関係では無になるんだ。サルトルが現象の有限・無限の二元論を捨ててないと思うのは、次の一節にも見られる。

 

 L'existence de la table, en effet, est un centre d'opacité pour la conscience ; il faudrait un procès infini pour inventorier le contenu total d'une chose. Introduire cette opacité dans la conscience, ce serait renvoyer à l'infini l'inventaire qu'elle peut dresser d'ell-même,faire de la conscience une chose et refuser le cogito.

(Sartre, J.P. (1943). L’être et le néant. Gallimard pp.17)

 

  つまりテーブルの存在は意識にとって不透明性opacité であり、事物の全内容を意識に導入することは、無限のプロセス un procès infiniが必要になる。それは、意識をして自分を構成する内容の目録を無限にà l'infini 延期することであり、意識を事物にしてしまうと言うんだな。

 これはまさにテーブルの存在を現象の無限系列としていて、その無限系列を意識に導入することは、意識を事物にしてしまうってことだ。だから意識がテーブルについての意識であるのは、無限系列についての現前的有限だからだ、と私は思う。

 

特異性の探究(その5)

 スコトゥスの「このもの性」という概念は、よく考えてみると、形相が個別化する説明にはなってないんだな。それは形相が個別化してるという事態を概念化したものだから、個別性とは個別化することだと言ってるに過ぎないね。

 そう思ってしまうのは、「このもの性」が自然知性の概念だと取り違えてるからなんだな。スコトゥスにとって「このもの性」としての神は、恩寵による超自然的認識によってしか捉えられないもので、言ってみれば感覚を通じた認識による概念じゃないんだ。

 スコトゥスは二重の視線で神を捉えてるから、哲学概念と神学概念が混在してるんだ。この概念の種別性を整理しないと、全部が哲学概念であると混同してしまうことになる。

 それに「このもの性」って言っても、超自然的認識だから自然知性によって捉えることはできないんだな。蓮実重彦の『ボヴァリー夫人』論にしても、一般概念の膨大な集積であって「このもの性」それ自体じゃない。だけど、それが「このもの性」であることを疑いようもなく指し示してるね。

 「このもの性」も「形相的非同一性」も言葉にしてしまえば、一般概念になってしまうから、それらを哲学概念と混同してしまうんだな。私達が言葉という一般概念を使用している限り、神学概念は哲学概念の批判としてしか存在し得ない。「このもの性」という概念それ自体に、このもの性はないんだ。その概念が哲学的か神学的かを捉えるには概念だけを見ていてはダメで、その概念が有効となる土俵が何かを捉えるべきだね。

 「存在の一義性」はアクィナスへの批判として、自然知性の土俵で議論してる。だからそれは哲学概念であって、「このもの性」としての神ではなく、哲学的一般性としての神にしか到達しない概念なんだな。

 逆に「このもの性」「形相的非同一性」は三位一体の議論で使われてる。だからそれらは神学概念なんだ。つまり超自然的認識の痕跡なんだな。恩寵として与えられた福音的概念なんだ。元々、神のペルソナを説明する概念だから超自然的認識であるのは当然だね。それは恩寵によって人間精神の外から与えられた概念だから、やはりスコトゥスの場合も他力によって形相が個体化してるね。主体であるために自己否定する必要はない。

 感覚を通じて得られる概念が一般性でしかないのに、「このもの性」を感じることができるのは、人間に超自然的あるいは超感覚的な認識の痕跡があるってことだね。

 スコトゥスがそう考えたのは、キリスト教が愛の宗教だからだと思う。愛という事実がなければペルソナも「このもの性」も要らない。ペルソナの非交流に対して、神の本質が交流する。それが愛だと思う。神においては本質と存在が一致してる。だから、本質の交流とペルソナの非交流が一致するんだな。それが三位一体だ。それに対し被造物のペルソナは神のペルソナのように完成していない。人間は本質と存在が分離してる。だから人間の愛は孤独な精神の愛であり、その愛は常に交流と非交流が一致する成就へ向かうんだ。両思いってのは当たり前だけど、孤独な精神が交流していることの願いであって、現実に交流してるわけじゃない。孤独な者同士の愛だからこそ、美しくも悲しいんだと思うね。それは途上の愛なんだ。

 人は一般的に美しい人を愛することもできる。それは自然知性の愛だ。それは感覚を通じて得られた一般的な愛なんだ。アイドルを愛するというのは、一般的な愛だ。哲学は知を愛するというけど、それは感覚を通じて得られた一般概念という偶像を愛してるんだな。

 だけどテンプレにしてテンプレにあらずっていう美しさを感じるときがある。現象が現象であることに変わりはない。それなのに「このもの性」が「一般性」からはみ出している。そのときアイドルは「このもの性」という感覚では捉えられない形相を指し示すアイコンになるんだな。見えないものが見ることを強制する。神学者マリオンの指摘してるとおり、偶像は視覚によって生じるけど、イコンは逆に視覚を生じさせる。

 愛においてもまた、哲学的かつ神学的な二重の視線がある。哲学的視線は対象の一般的な美しさに視線を向けつつ他と比較するために動き回る。神学的視線は逆に「このもの性」によって対象に視線を向けさせられ、停止させられる。「このもの性」を見ることはできないけど、視線の停止、言い換えれば比較することのない視線がその実在を示してるんだな。

 

 

 

特異性の探究(その4)

 難解というかイミフな概念を理解するには、その根本動機をつかむのがてっとりばやいね。

 スコトゥスの「天使のペルソナ」という概念の根本動機は何か?

 それは天使のような非質料の形相がなぜ個体になるのかという問いで、その問いは人間精神がなぜ孤独なのかという問いと、神のペルソナが三つの位格に分かれるのはなぜかという問いについて、統一的に回答しうる視点を与えるんだな。それが根本動機だと思う。

 質料が個物として個体化するというのは、日々、経験してることだから疑問は生じないけど、形相が個体化するというのは、考えてみれば不思議だよね。だって質料がないんだから。

 精神が質料抜きで、それ自体で個体になる、つまり主体になるのはなぜかって問いは難問なんだ。ヘーゲルの場合は、精神の中核に否定を導入して矛盾の弁証法的運動として説明してる。現代思想は反ヘーゲルだけど、あれはあれで究極の解答ではあるんだな。確かに自己否定を入れると主体っぽい。だけどヘーゲルにお伺いしたのは、なら絶対精神も自己否定でしょうかってことだね。神の自己否定? 奇妙だけどそうなんだ。ヘーゲルスピノザも神を脱中心化してるね。で、ヘーゲルは自己否定、スピノザは様態的変様でそれを説明してるんだな。

 ヘーゲルにしてみれば、スピノザの観念は自己否定しないから主体にはなりえないんだな。スピノザ的世界は主体のない死んだ客観世界なんだ。だけどスピノザのいう人間精神は、身体についての観念だからね。そういう心身並行論に立てば、身体という延長質料の個体化によって、自己否定せずに精神の個体化が説明できるわけだ。一応ね。あくまで一応だ。

 この質料の個体化によって形相の個体化を説明するのが唯名論だけど、でも、これって結局のところ、個体化の問題を形相から質料に移動させてるだけなんだ。だから次に、じゃあなぜ質料が個体化するのかって問題になる。で、唯名論者は質料の本性自体に個体化があると言うんだな。要するに、見たとおりだろ、っていってるわけだけど、本性が個体化するならヘーゲルの自己否定に帰着するんだな。ヘーゲルの場合、物質もまた精神と同じように自己運動するわけだ。それが観念論的弁証法だね。

 まあ、普遍論争について一冊の本があるぐらいだから簡単に要約できないけど、要するに個体化が自力によるのか他力によるのかがポイントだと私は思うね。

 で、精神が自力で個体化するという論理は、ヘーゲルみたいに何らかの自己否定の論理が必要になってくる。それに対し他力で個体化する論理は自己否定が要らない。ドゥルーズがヒュームに関心をもったのは、やはり連合原理という外部によって主体化が生じる点にあったと思うね。スピノザの場合、他力による精神の個体化・主体化という論理は、観念が何ものかについての観念と定義されてるところにあると思う。延長属性の様態である物体の個体化は、神は無限の仕方で産出するという定理にあると思うね。だから形相も質料もともに他力で個体化してるんだから、自己否定は要らない。

 そうなるとスコトゥスは一体どう考えてたんだろうって興味が湧くよね。スコトゥスの「個別化の原理」が難解なのは、一般的な原理として説明することができないからだな。それは批判的原理であって、通常考えられてる個体概念をすべて破壊してるんだ。

 まず個体ってのは常識的に一個二個と数えられるんだけど、スコトゥスのいう「このもの性」は数えられない。そのことは質料的実体を「このもの性」として個別化するものが数ではないってことを意味するんだな。「このもの性」は集合要素の識別とは違うってことだね。集合要素は識別できるから個体のように思えるけど、その識別は集合によって定義された共通性に基づいてるんだな。それが自然数集合と対応してるから数えられるんだ。互いに何の共通性もない「このもの性」は集合の要素にはならない。だから数えられないってことだね。個体が数えられないってのは逆説みたいだけど、論理は明瞭だ。

 スコトゥスは「実体的変化」まで援用して、偶性が個別化の原理ではないことを論証してるから、やたら難解かつ神秘的なんだけど、数的区別が個別化ではないことは現代人の私にも理解できる。でも、それは偶性の多数性という部分的論証に過ぎないんだな。

 で、神のペルソナには偶性の多数性が存在しないから、三つのペルソナは数的相違ではないってことになるわけだ。

 これは結構凄いことをサラリと言ってるわけで、要するにペルソナは神の共通本性で括れないってことなんだな。括れたら集合として数えられるからね。言い換えれば「このもの性」は共通本性とは区別された形相なんだ。それが「形相的非同一性」という概念だね。

 スコトゥスの定義によるとペルソナとは「知性的本性の非交流な実存」ということになる。言い換えればペルソナは孤独なんだ。神が孤独ってわけじゃない。神の本質はすべてに交流する。あくまでペルソナとしての神が孤独なんだ。だからキリスト教徒はイエスを愛することができる。それは「このもの性」としてのイエスを愛してるんだな。だから実感を伴ってるんだ。諸宗教に共通する神を愛するなんて、それは言葉だけの愛だね。

 スピノザの神にはペルソナがない。だから彼の言う神への愛は、人間における神の自己愛の反映であって、第三種の認識による精神の自己満足なんだな。

 だけど愛するってことは、ペルソナという非交流な実存でない限り不可能だね。非交流だからこそ交流を求めるんだ。共通本性で括れるようなものは愛することができない。共通本性をはみ出る「このもの性」がない限り、愛は成り立たない。

 で、「このもの性」ってのは事の性質上、一般的に説明できない概念だね。それは個体の個物性だから、個体ごとに違う。

 例えば蓮実重彦著『ボヴァリー夫人』論は、誰もが読みもせず気づいてもいなかった「ボヴァリー夫人」の「このもの性」を暴露してるんだな。「ボヴァリー夫人」という小説には「エンマ」とあるだけで、「エンマ・ボヴァリー」という名称が存在しないというようにね。「大江健三郎論」は最後が「荒唐無稽」で終わってる。

 まったくそのとおりで、「このもの性」ってのは荒唐無稽なんだ。人が文学を愛するのは、その作品が「このもの性」だからだ、と私は思う。文学作品は文学という共通本性で数えることができるけど、「このもの性」としての作品は数えることはできない。

 

 

 

特異性の探究(その3)

 論点を明確にするために、ここで探究しようとしてる「特異性」が何かを整理しておこう。もちろん探究してるんだから正体不明なんだけど、問題は誰が主張する「特異性」なのか、だね。

 これについては柄谷行人の「単独性」とか、ドゥルーズの「特異性」とか、スコトゥスの「このもの性」とか、様々な言い方がされてるんだけど、どれも似たような概念として、一応「特異性」という言葉で括るとすると、あたかもスコトゥスの「このもの性」が現代思想の「特異性」概念の源流のように見えるんだな。でも、それは違う。

 スコトゥスの言う「このもの性」は、神の恩寵抜きでは認識不可能なんだ。なぜなら「このもの性」は純粋形相として対象それ自体であって、感覚機能を経由する自然知性の能力を超えるからだね。で、スコトゥスは認識対象ではなく、恩寵の有無で「自然知性」と「超自然的認識」を区別してる。だから「自然知性」の哲学者が神を認識することは可能だけど、恩寵抜きだから、その神は特異性ではなく、諸宗教に共通する一般性としての神に過ぎない。

 こうしてみると「特異性」という概念で括ろうとする内容にも、論者によって深度の違いや包摂範囲の違いがあることが分かるね。

 で、あくまでスコトゥス的視点に立てば、現代思想で言う「単独性」とか「特異性」は、恩寵抜きの自然知性によるものだから、言葉だけの特異性であって、彼の言う「このもの性」とは別物なんだな。

 無信仰の私が探究しようとする特異性もまた、「このもの性」なんだ。私にはそれが偏狭な三位一体のキリスト教徒の戯言とは思えない。それというのも、この信仰に基づく主張には思考放棄ではなく、認識論としての内容があるからだ。それを見ていくことにしよう。

 問題は認識のプロセスじゃなくて、そもそも感覚によって私達は何を知ることができるのか、これなんだ。プロセスという点では、カントもスコトゥスも似ている。というか多分カントがスコラ学の影響下にあるんだと思う。

 つまりスコトゥスの場合、自然知性の認識プロセスは、感覚対象 → 能動知性による感覚対象から可知的対象の抽出 → 可能知性による可知的対象から概念の産出、という流れになるんだけど、これは能動知性を「悟性」、可能知性を「理性」に置き換えればカントの認識論と同型になるね。

 だけどカントはそうしたプロセスによって、一体、対象の何が認識されてるのかを問おうとしない。ただ認識一般があるだけだ。これに対してアクィナスやスコトゥスらの神学者は、対象を質料と形相に区分して考える。この区分が現代では廃れてしまったけど、それは区分する動機が忘却されたからだ。つまり質料と形相の区分が概念上の区別として有効になるのは、神と天使と人間がそれぞれ何を認識するかが問題となる場合に限られる。ギリシャ起源の質料と形相が、中世では神学概念になってることが現代では忘却されてるね。

 で、中世の神学者は、人間の自然知性においては、認識対象も認識主体も共に形相を含む質料的実体としてるんだな。なんか精神とか理性と言えば非質料的なイメージがあるけど、むしろ中世神学者達にとって、それらは質料である肉体に原罪によって閉ざされてるんだ。認識対象や認識主体が非質料的な純粋形相となるのは、神や天使に限られてる。

 つまり肉体という質料と精神という形相が未分離な複合体が人間なんだけど、自然知性の認識対象もまた同様に、質料と形相の未分離な複合体なんだな。形相・質料のあり方が、認識能力と認識対象とで一致している。言い換えれば認識のプロセス自体が、認識対象が何であるかを指し示してるわけだ。もし認識対象が純粋形相なら、自然知性の認識プロセスは感覚抜きの別の形になるはずだね。だから恩寵抜きの自然知性は天使のように純粋形相を認識対象とすることができない。

 で、スコトゥスの場合「超自然的認識」とは、神の恩寵によって、神という純粋形相を感覚経路を通さずに、直接、可能知性によって認識することなんだな。そら、純粋形相だから質料的実体から形相を抽出する操作が不要になるのは当然だよね。

 現代人は数学とか現象学的還元とかで、あたかも純粋形相を対象として認識してるかのように錯覚してるんだけど、それらは中世神学者にとっては、あくまで質料的実体から抽出した形相を能動知性が可知的対象に変えてるだけなんだな。概念の操作だけに着目すると純粋形相に見えるんだけど、その概念は質料的実体から抽出された形相なんだ。人間と対象という質料的実体間の形相の移動を、質料的側面を無視して形相のみに着目したものがノエシスノエマだけど、デリダが批判してるとおり、そうした質料の還元は、質料としての声を想像された声へ還元してるわけだから、「ノエシスノエマ」の総体は肉体に閉ざされた精神の内的独り言であるに過ぎないんだな。これを書いてる私の精神もまた、質料なき内的独白ではあるけど、肉体という質料の中の形相であって、純粋形相じゃないことは確かだ。

 さらにスコトゥスはこの自然知性と超自然的知性を、同じ人間知性として統一的に捉えている。つまり原罪以前においては、人間には超自然的知性があったんだけど、原罪によってそれが失われ自然知性のみになったわけだ。でも、神の自由意志による恩寵によって超自然的知性が復活することになる。これに対して無原罪とは、言わば神の自由意志に依存せず、超自然的知性と一体となってる状態なんだな。

 原罪によって自然知性しか持たない人間が、恩寵によって神を直観するのが至福者であり預言者なんだけど、イエスは神の自由意志ではなく、神の御言葉と一体となってるんだな。イエスが神の子として恩寵によらず生まれながら無原罪であることは当たり前だけど、それを保証するにはマリアもまた無原罪である必要がある。そこが原罪を恩寵によって中和化される預言者との決定的な違いだ。他方、聖書におけるイエスの言動、例えば律法学者との論争などを見る限り、イエスは自然知性も放棄してるわけじゃない。つまりイエスは人間本性と神性との共存として、自然知性と超自然的知性の両方を有してるわけだ。神学者が超自然的認識とともに自然知性を放棄せず、現実を哲学的かつ神学的な二重の視線で捉えてるのは、イエスに従ってるからだと思うね。

 このような議論は現代人とは無縁の信仰者の妄想のようにも見える。だけど精神が孤独であるのはなぜか、他者を特異性として愛するのはなぜかという問いに対して、哲学は言葉も概念も持たない。哲学的視線は一般的だから被造物を愛することができない。被造物を特異性として愛することができるのは、自覚するにせよ無自覚であるにせよ神学的視線によるものだ、と私は思う。

 またスコトゥス聖母マリアの「無原罪の宿り」を重視するのは、あくまで私見による直感だけど、以上のようなスコトゥスによる自然的かつ超自然的認識論の統一的な枠組から必然的に導かれるものだと思う。信仰は思考放棄ではなく思考の徹底遂行であり、自然知性を相対化して、その限界を見定めうるだけでなく、その本質を解明しうるものだ、と私は思う。

 

 

特異性の探究(その2)

 スコトゥスによる神の形而上学的探求(一般性としての神)は、あくまで彼の神学的探求(特異性としての神)とは区別して遂行されてるんだけど、それはそれなりに本格的なんだ。それはある一点というか自然知性の根源においてスピノザと結びつく。そこが興味深いところだね。

 スコトゥスは自然知性によっても、つまり恩寵による神の意志を原因としなくても、神に固有の概念を把握できるとしてるんだな。固有といっても特異性じゃない。つまりイエス・キリストではなくて他の宗教とも共通する一般性としての神に固有の概念だ。それは例えば人間の自然知性は「善」「最高」「現実」などの概念を複合させて「最高度に現実的な善」の概念を生み出す能力を持ってるわけだけど、その操作を極限まで遂行すると「無限存在」の概念に到達すると言うんだな。だから自然知性による一般性の神に固有の概念とは、スコトゥスによると無限存在の概念なんだ。まさにスピノザによる神の定義と同じだね。ということは、スコトゥス神学の体系的観点からすると、やはりスピノザ思想は自然知性として「一般-特殊」系であって「特異-普遍」系ではない。スピノザの特異性は単なる言葉でしかないということだね。

 だからスピノザの神は、確かに人間知性として究極まで考察された神ではあるんだけど、それでも神の「このもの性」「この本質」が捨象された一般性としての神、哲学の神に過ぎないんだな。「存在の一義性」によって自然科学と神の探究が合致するとか、アインシュタインスピノザの神を認めていたとか、まあ、それは確かにそのとおりだろうけど、スコトゥスにとって、それは自然知性による一般的神認識に過ぎないんだな。あくまで彼の体系の下位区分の問題なんだ。

 では、どうやって特異性を探究するというのか? 

 スコトゥスのいう超自然的な仕方による神認識とは一体何か?

 神学者は自分が恩寵を受けることを待ったりはしない。それだと自分が預言者でない限り、いつまでも神学を開始できないことになるからね。ちなみに新約の預言者は少ない。女性のアンナ、男性のヨハネアガボの3人だ。聖人は多いけどね。あれは殉教が認定要件だから、超自然的神認識の恩寵の有無は不明なんだな。

 だけど預言者もまた人間の一員だから、恩寵を受けうる人間観つまり神学的人間を前提として議論するわけだ。つまり人間の中に神の痕跡を探すんだな。スコトゥスの場合、神の特異性の痕跡とは、三位一体なんだ。つまりイエスの子としてのペルソナと父なる神のペルソナとの結合の問題だ。それはまたイエスの人間本性と子としてのペルソナとの関係の問題でもある。

 この三位一体は他の宗教には見られない、キリスト教独自の特異性であって、現代人の私にとっては思い込み、あるいは妄想としか思えない。天使のペルソナとかね、勘弁してくれといいたくなるような議論だ。

 だけど、こうも言えるんじゃないかな。つまり、この妄想はそれ自体が特異な妄想であって、妄想の特異性の探究が、特異性の本質解明に繋がる、と。

 それというのも現代人は自分が孤独であると知りながら、孤独の意味、つまり自分の特異性を正面から問うことがないからだ。ズバリ言おう。孤独は哲学ではなく神学の問題なんだ。カントもハイデッガーすらも孤独の意味を問わなかった。ま、ハイデッガーの場合は孤独を自明の前提としてるんだけどね。

 孤独の問題とは、カントが決して問わなかった問い、すなわち超経験的領域がなぜ孤独なのかという問いなんだ。これがね、質料の個別化なら分かるんだ。確かに私は時間・空間の一部を排他的に占有してるんだから、私の経験は他の誰とも違う特異性がある。で、カントは「私は思考する」という超越論的主体で孤独を捉えてるように見えるけど、それは前提であって、なぜ非質料である超越論的主体が孤独なのかという問いは立ててないね。

 だけど不思議なことに非質料である精神もまた孤独なんだな。あるいはスコトゥスの言い方だと他者の精神と非交流なんだ。私は意味とか概念とか、人間の共有物で思考している。それらは非質料だから、他者と直接交流できてもよさそうなもんだけど、他者の精神と同一でないことは言うまでもない。この非同一がなぜなのかが問題だ。

 スコトゥスが天使のペルソナを議論するのは、そういう問題意識がある。つまり非質料的実体である天使がなぜ孤独なのか、言い換えれば個体として他の天使と非交流であるのはなぜか。それは一者である神とペルソナの多数性との関係の問題でもあるんだな。精神の孤独という問題は、非質料的実体としてのペルソナがなぜ孤独なのか、つまり他のペルソナと非同一であるのはなぜか、という問題でもあるんだな。

 スコトゥスの「形相的非同一性」という概念は、この問題について考察する道具なんだ。確かにこれは妄想に見えるというか、三位一体のキリスト教だけが抱える特異性の問題だけど、それは精神の孤独という問題でもある。決して現実離れした抽象的な問いでもなければ、現代人と無関係な問いでもないんだ。

 哲学者は一応、独我論の問題として色々議論してるんだけど、たぶん記号論理学で夾雑物を除去して整理すれば、結局、そうなものはそうなんだと言ってるだけかもしれないね。なぜなら、彼らの概念装置一式が感性・知性による認識の一般性を前提してるからだ。たとえカントを批判したところで、認識の一般性という枠組は変わっていない。

 つまりカント以来、感覚機能を一般性としてしか捉えてないってことだね。特に見るということ、視覚機能はアレを見て、コレを見てとどまることがない。視線が何ものにも固執せず、自由に動き回る限り、世界は灰色で、昨日と同じ今日、今日と同じ明日が続くだけなんだ。哲学者の見ている現実世界は見通しがよくて、何の抵抗物もなく、すべてを均等に見て回る。それは視覚をスピノザのように個物と個物の出会いによる身体変状についての観念として捉えようと、カントのように物自体による触発として捉えようと、特異性を見ることが何を意味するかを不問にしてることに変わりはないんだ。言い換えれば、彼らは視覚機能の一般性に自足してるんだ。なぜか? それは無信仰の立場に立つならば、特異性の神を見ることと一般物を見ることとが無差異になるからだね。

 だけど、ここに奇蹟でも恩寵でもなく、ただ日常的な出来事がある。それは視線がある対象に停止するってことなんだな。

 自分の愛する人は、もちろん特異性なんだけど、それはかけがえのない存在、つまり代替不能性ではないんだな。それと勘違いする人もいるんだけど。かけがえがないってことなら、愛する人に限らず誰だってそうだ。どんな人でも代替不能だね。それは質料の特異性であって、精神の特異性じゃない。愛する人が何であるか、他の存在と異なる最も本質的な特徴は、視線が停止する対象ってことだね。

 どれだけ強く愛したかは、どれだけ長く視線が停止したかによって計量可能だ。逆に言えば、それ以外に観測可能な尺度はない。

 だけど、特異性に出会ったときの、この視線の停止という事実は、視覚機能の一般性では説明できないことだね。哲学者が一般性しか見てないってのはそういうことだ。

 これに対して神学者は現実を二重に見ているね。人間の自然知性が捉える一般性の世界と、超自然的神認識による神学的特異性の世界の二つだ。で、どちらにも目を配って考察してるもんだから、外部から見ると自然知性の議論に注目して、神学が哲学に似てると勘違いするんだけど、それは大いなる誤解だね。スコトゥスからスピノザへの流れを見ると、問いとして何かが失われたような気がする。そしてその喪失が現代まで続いてるんだな。少数の神学者のみが反時代的に、その問いを問い続けてるようだ。

 神学者だからね、神だけを考えてりゃよさそうなのに、なぜ人間の自然知性まで考察するのか。それは人間知性それ自体の福音的意義、つまりシニフィエとしての福音を捉えようとしてるからだ。もちろんサドにもニーチェにも無神論にも福音的意義があるんだな。神学者は人類の歴史を福音のシニフィアンとして見ている、と私は思う。

 同志社大学神学部に無神論の文献が豊富にあるのも、佐藤優キリスト教徒でありながらマルクスに言及するのも、私は矛盾してるとは思わないね。

 

 

特異性の探究(その1)

 現代思想における「特異性」はヘーゲル的特殊とは異なってるんだけど、それがどんな風に異なってるかを問い尋ねるとすれば、そもそもの淵源から探るしかない。

 スコトゥスは神の認識を自然的神認識と超自然的神認識の二つに区分し、後者を前提として前者が成り立つとしている。「存在の一義性」はその文脈で主張されてるわけだ。

 で、スコトゥスの「神」は、あくまでキリスト教の神であって、他の宗教の神とは異なる「特異性」がある。それは哲学の「神」ではなく、特異性の神なんだな。

 してみると、ドゥルーズによってヘーゲル的「特殊-一般」系に対するスピノザ的「特異-普遍」が主張されていて、柄谷行人江川隆男らも同様の主張をしてるわけだけど、そのスピノザの「神」は哲学の「神」であって、特異性の神ではないんじゃないかという疑念も生じるね。

 スピノザの「神学・政治論」では、まさに諸宗教に共通する信仰の本質が解明されてるんだけど、これほどスコトゥス的神と異なる見方はない。「特異性」というのは本来、攻撃的であって融和的な妥協の余地はない。前回、サドとの関連で述べたけど、スピノザの言う第三種の認識による「至福」とは、神(自己原因)の自己愛に相当する人間精神の自己満足であって、闘うことの拒否でしかない。そこに私は不満というか、スピノザの限界を感じるんだな。

 で、スコトゥスは「特異性」を「このもの性」としてるんだけど、スコトゥスの信仰上の文脈から切り離して、ただ概念として継承しようとすると、やたら神秘的な概念のように見えてくるんだな。別に恋人やペットのかけがえのなさが問題になってるわけじゃない。誰もがかけがえがないと思うようなものは、一般性であって特異性ではない。特異性とは誰もが一般的には、かけがえがないとは思わないようなものなんだ。特異性が攻撃であるとはそういう意味だ。だから問題になってるのはイエスのかけがえのなさなんだな。それは他の宗教とは比べることのできない特異性であって、それを思考する道具として「このもの性」という概念がある。

 言い換えればスコトゥスにとっては、超自然的神認識とは特異性としての神、つまりイエスの認識だから「このもの性」が必要なのであって、自然的神認識は一般性としての神認識に過ぎない。この観点からみる限り、スピノザの神は特異性ではなく一般性の神なんだな。イエスという「このもの性」を無視してるからね。ヘーゲルスピノザを評価するだけの理由はあるんだ。

 スコトゥスの目から見れば、現代思想も含めて、アリストテレス以降の思考はすべて「一般性」の認識になる。感覚と知性(悟性)による認識は絶対的に「一般-特殊」系に包摂されるわけで、神の意志を原因とする超自然的認識でない限り、「このもの性」は認識できない。哲学による「神」の探求は自然的神認識であって、神学はそれを超えて超自然的神認識を目指すわけだ。だからスピノザ思想は哲学であって神学じゃない。

 現代思想は、元々、神学概念である「このもの性」を哲学として扱おうとするから、特異性が神秘的になるんだけど、神学的に捉えれば実はシンプルな概念なんだな。「存在の一義性」も同様だね。

 私自身は無信仰だけど、仮説としての信仰というか、信仰者のつもりになれば神学の理路がそれなりに分からなくもないんだな。それは結構スリリングでもある。

 信仰者のつもりになるというのは、思考放棄して神を信じるということじゃない。前回、サドに関連して述べたけど、現実を福音のシニフィアンとして捉えるってことだね。そうすると現実世界に福音がないことは矛盾じゃない。それとは別にシニフィエとしての福音があるわけだ。これは真の現実とは神学的現実であって、哲学的現実はその一部に過ぎないってことなんだな。信仰が思考放棄なら、神学が生まれるはずはないね。

 以上から言えることは、神学と哲学の最大の違いは、イエスという「このもの性」を前提とするか否か、これだね。それを前提としない限り、スピノザのようにいくら精妙に概念を駆使したとしても「このもの性」である特異性は把握できない。それは哲学による一般性の考察であって神学じゃない。

 だけど哲学と神学を混同する人は、「存在の一義性」を特異性に関連づけようとするんだな。それは理路として無理筋だから、御本人はやたら難解だと韜晦するしかない。だけど「存在の一義性」は特異性とは何の関係もない概念なんだ。

 スコトゥスは、神の自然的認識(つまり哲学だ)にとっては、神の「このもの性」を認識することができず、神を一般性としてしか認識できないから、その神と被造物との存在が一義的になると言ってるに過ぎないんだな。だから「存在の一義性」は特異性とは結びつかない。むしろ一般性(哲学)の認識の範囲に限定された概念だ。その大前提が整理されてないと、議論が混乱するだけだね。

 「存在の一義性」が特異性に関連づけられるのは、アクィナスの「存在の類比」と対立的に捉えられていて、しかもアクィナスの体系がアリストテレス的一般性(まさに哲学)に親和的なもんだから、それを超える概念のように見えるからだろう。

 だけどね、スコトゥスもアクィナスも自然的神認識、つまり一般性のレベルで議論してるんだな。で、アクィナスは神と人間との関係は隔絶してるから類比としてしか認識できないと言ってるのに対し、スコトゥスは類比とは概念の内容ではないから、類比概念では神の一般的認識が成り立たないと言ってるに過ぎない。で、類比を多義性とし、それに対して一義性でないと神について何も言ったことにならないし、そもそも神が存在するとも言えないとしてるわけだ。

 結局、神と被造物とは存在において絶対的に異なってるという点については、スコトゥスもアクィナスも変わりはないね。そら、同じキリスト教徒なんだから、当然だね。ただスコトゥスは、人間知性の範囲では「存在の一義性」が成立するし、成立しないと自然的神認識(一般的認識)すらも成り立たないと言ってるだけなんだな。

 ま、ある意味では「存在の一義性」によって、自然的神認識が極限まで追求されてるわけで、そこにスピノザとの類似があるわけだけど、スコトゥスにとってあくまで特異性の神、つまり神の「このもの性」は超自然的神認識でしか捉えられないんだな。つまり神の意志という恩寵抜きには成り立たない認識だね。信仰を奴隷の認識としてしか評価しないスピノザにとって、「このもの性」つまり特異性とは単に言葉だけであって、原理的に到達しえない認識なんだな。

 

ドゥルーズのヒューム論と自殺(その2 )

 一気に問題の核心へ進もう。

 それは本書(「ヒュームあるいは人間的自然」(ドゥルーズ著 木田元・財津理訳))を読みつつも、叢雲のように湧き上がってくる疑問と関係してるんだな。つまりドゥルーズによるヒュームの論考は、彼の特異性の概念とどう交錯するのか、これだね。ズバリ言えば本書の論考はあまりドゥルーズらしくないんだな。だって情念の偏りが矯正されて公共道徳になるというようなヒュームの議論は、特異性こそに価値を見出すドゥルーズの視点と折り合いが悪いからね。ヒュームとスキゾは折り合いが悪そうだしね。

 そこから予想されるのは、この健全なヒューム像から、どうやって特異性を引き出すか、そこに本書のスリリングな挑戦があると思う。だから「例外」についての言及には興味があるんだな。若きドゥルーズはそこまで考えてないと思うかい? いやいや彼は自分の自殺まで本書で予見してるみたいだね。

 本書は正直のところあまりにも難解で、ドゥルーズが果たしてヒュームから特異性を引き出すことに成功したのか否か、私にはよく分からない。それでもただ一箇所、鋭く目を射る箇所があるんだな。それは二度と再び言及されないんだけど、「特異なもの」が一箇所だけ出てくるんだ。しかも仮定の形でね。

 

 物理的な対象や反復は世界のなかにしか存在しないのだが、世界そのものは本質的に<特異なもの>だと考えるならば、こうした世界は想像の虚構であって、けっして知性の対象ではない。要するに宇宙論はいつでも空想的なものである。(本書126頁)

 

 その後で、ドゥルーズはヒュームから次の引用をしてるんだな。

 

 自殺する者は自然に対して背反せず、あるいはこう言ってよければおのれの創造者に背反しないのである。彼は、苦しみから脱するために自然が彼に残してくれる唯一の道をとることによって、そうした自然の衝動に従うのであり、・・・死ぬことによって自然の命令の一つを果たすのである。(本書127頁)

 

 どうだろうか、若きドゥルーズは、ヒュームからの引用ではあるけど、自殺が「苦しみから脱するため」の自然の命令の一つだと書いてるんだな。しかも特異性に言及した直後だ。

 この世界そのものが<特異なもの>だと仮定することが、なぜ自殺論に結びつくのか。

 ドゥルーズの説明によると、例外というもの(つまり<特異なもの>)が、自然の一つの対象になるからだというんだな。まさに自然が<特異なもの>であるなら、特異な情念(自殺)もまた自然ということになるわけだ。

 ただ、この<特異なもの>についての議論は、ここで終わってる。

 これが、ドゥルーズの解釈したヒューム像とどう繋がってるか、私の読解力では分からない。これを読んで興味関心が湧いた人にお任せしたい。私は気づいたことをただ指摘したいだけだな。