経済学・哲学・文学草稿

Une vie consacrée à la lecture.

抑圧 Die Verdrängung

 抑圧というのはよく聞く言葉だけど、そうした雑念を一切捨ててフロイトの言う抑圧概念に耳をすませてみよう。

 前回、私は欲動を神経システムの反応のように解していたけど、それは誤解であって、よく読むとフロイトは欲動それ自体を内的刺激としている。だから欲動が高まることは不快なんだけど、高まれば高まるほど、解放されたとき、つまり低減したときの快楽が大きくなるわけだ。(内的刺激の完全な除去は死となるので、生きている限り欲動は恒常的に存在する。)

 ということは欲動は不快として本来忌まわしいはずなのに、なぜ欲動の対象を求めるのか、それは対象によって欲動を低減するためなんだな。食物や性対象を求めるのは、高まった食欲や性欲を低減させるためというわけだ。

 外部刺激の場合は刺激対象からの逃避によって不快を避けるが、欲動のような内部刺激の場合、自分が自分から逃避することは不可能なので、逆に対象を求めることになる。内部刺激を低減させる方法は外部へ筋肉運動として放出するしかないので、それは対象と一体化したときの身体反応として実現するしかないんだな。エディプス前期では意識以前だから、自体愛として対象身体が自己の身体になりうる。フロイトサディズムからマゾヒズムへの対象の方向転換が、自体愛への固着・退行に起因するとしている。

 だから快感原則に従う限り、抑圧は生じない。外的刺激対象から逃避して内的刺激の誘発を回避するか、欲動の対象を求めて内的刺激を放出するか、どちらかである。

 この小論では現実原則には触れていないんだけど、意識・無意識が未分離な状態では抑圧は存在せず、意識が分離した後で抑圧が生じるとしている。

 なぜ抑圧が生じるのか? それは欲動の目標が快と不快の二重性を有しているからだ。例えば欲動の目標としてサディズムについてみると、無意識の状態では快であるが、規範意識にとっては不快となる。まあ、人によりその境界線は様々だろうけど、世間的な意識にとってサディズムがヤバイのは確かだ。 

 したがって快と不快の二重性を目標とする欲動(例えばサド的欲望)に対して、意識は「有罪判決」Verurteilungを利用する。また害悪を及ぼす対象に対処するには「逃避」Fluchtを利用する。フロイトは「抑圧」die Verdrängungをその中間としている。

 つまり快と不快の二重性において、不快>快の場合に、抑圧が生じるわけだ。だけど二重性だからそれを快とする欲動が消えたわけではない。様々に変形するんだな。

 そこでよく分からなくなるのが、「欲動の心的な(表象)代表」だ。

 

 Wir haben also Grund, eine Urverdrängung anzunehmen, eine erste Phase der Verdrängung, die darin besteht, daß der psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes die Übername ins Bewußte versagt wird. Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; die betreffende Repräsentanz bleibt von da an unveränderlich bestehen und der Trieb an sie gebunden.

 われわれには、<原抑圧>というものが存在すると想定する根拠がある。この抑圧の第一段階では、欲動の心的な(表象)代表を意識に取り込むことを拒むのである。これによって固着が起こる。その代表はその時から変化せずに存続し、欲動はそれに結びついたままとなる。(中山元訳)

 

 「欲動の心的な(表象)代表」を意識に取り込むことを拒むというのだから、その拒まれた表象は意識の対象ではないということになる。つまり無意識だけど、フロイトは無意識のなかに心的な表象を仮定しているように読める。意識への取り込みを拒まれた代表が変化せずに存続するというのだから、無意識の中に表象が存続すると主張していることになる。

 通常、心的表象といえばVorstellung(前に-位置する)の語感により、意識の現前のように思ってしまうのだが、無意識の表象とは面妖である。その正体は一体何なのか? 

 この小論の後半では抑圧のイメージとして、玄関先で見かけたイヤな奴を家の中に入れないようにドアを閉めるという比喩が紹介されている。その比喩を使えば、快と不快の二重性の中で不快の大きい欲動と結びついた代表が、ドアを開けた瞬間、意識には表象として姿を現し、ドアを閉めることで姿を消す、ということかもしれない。

 だからドアの向こうに表象が存在するか否かを疑うのは意識の勝手だけど、少なくともドアを開ければ表象となりうるような何かが向こう側に存在しているということは確かだ。それが欲動に結びついた代表ということではないかと思う。ラカンシニフィアンと関係があるのかもしれない。

 フロイトはこの原抑圧が最も強い欲動の抑圧であって、その欲動の表象が意識にのぼってくることはないという。この抑圧された欲動の表象(注:抑圧されるのは表象であって、欲動自体は抑圧されない)から、さらに次々と表象が派生して、中心の欲動から離れた表象が意識にのぼってくるのは、そうした変形された表象ということである。中心の欲動から離れた刺激の弱い欲動と結びついた表象だから、意識にのぼりやすいわけだろう。これも比喩で言えば、玄関から閉め出したイヤな奴が嫌がらせに電話したりメールしてきたものを、うっかり受け取ってしまうようなものかもしれない。

 

 

欲動とその運命 Triebe und Triebschicksale

 自我論集(フロイト著・中山元訳)所収の本論文を読んで最初に思う疑問は、フロイトのいう内部刺激とは一体どこからやってくるのか? これである。

 フロイトはまず欲動を定義して、それは外部刺激に対する瞬間的反応ではなく、内部刺激に対する恒常的な力だとしている。

 

   Wir finden also das Wesen des Triebes zunächst in seinen Hauptcharakteren, der Herkunft von Reizquellen im Innern des Organismus, dem Auftreten als konstante Kraft,

 欲動の本質は、欲動の主要な性格、すなわち刺激の源泉が有機体の内部に由来するものであることと、恒常的な力として現れることにある。(本書15頁)

 

 外部刺激が存在することは明らかだが、内部に由来する刺激の源泉とは一体何か。その説明はない。その正体についてヒントになるのはフロイトが公表を放棄した「科学的心理学草稿」である。そこでは神経末端装置によって外界の刺激量Qが有機体内部の刺激量Q'nへ変換され、刺激量Q'nの増大が不快、低減が快として感受されるとしている。さらにフロイトは内部刺激量Q'nを伝達するφニューロン、一部を貯蔵し減衰して伝達するψニューロン、さらに内部刺激それ自体を生み出す分泌性ニューロンなどの存在を仮定して、内部刺激量が貯蔵(備給)されて、その差異的配置が記憶になったり、外部刺激とは独立して分泌増大する(不安の昂進など)ことなどを説明している。

 フロイトはそうした生物学的な見方を放棄しているのだが、精神分析の用語の背景にはそうした神経生理学的考察があるのは確かであり、この内部刺激量Q'nが「興奮量」の元ネタになっているのは間違いない。「備給」や「逆備給」などの正体不明の概念も、背景に各種ニューロンがあると仮定すれば、それなりにスジの通った理路であることが分かる。

 快とは内部刺激の低減であるから、外部刺激により誘発された内部刺激を低減する方法は、反射による外部への放出である。私見ではオルガスムが快楽であるのは、局部痙攣によって貯まった内部刺激が筋肉の運動エネルギーとなり外部へ放出されるからだと思う。それは次元の低い生命体にもみられる快楽である。幼児の泣き声も、ヒステリーの身体症状も、内部刺激の放出である。

 内部刺激である興奮量を貯蔵・伝達・分泌創出する各種ニューロンを仮定すれば、性器の愛撫という外部刺激が内部刺激に変換され、各種ニューロンの自律運動により記憶・連想として性的幻想が生じ、分泌性ニューロンにより内部刺激量が昂進して最終的に身体の局部痙攣により貯まりに貯まった内部刺激が一気に放出されるという一連の過程が明瞭になる。コンピュータもまた記憶素子が電気エネルギーを貯蔵・放出するが、ニューロンのように記憶素子自体が自律運動することはないので、いくらコンピュータが発達しても無意識・意識が生じることはない。仮想空間内で記憶素子を自律運動させない限り、人格転写などのSFネタは無理筋である。

 フロイトは「草稿」において、不快と快を内部刺激量の増大・低減としているが、苦痛と不快を区別している。つまり苦痛とはψニューロンの貯蔵能力を超える大きさの刺激が伝達することである。このときψニューロンは抵抗ゼロとなり、大きな刺激の伝達経路が形成される。逆に言えばψニューロンの許容量を超える内部刺激が苦痛である。だから過去に苦痛があった事実は記憶しているが、苦痛そのものを回想で再現することはできない。幸いにも。

 だが苦痛により内部刺激の伝達経路が大きく形成されることは、より大きな量の内部刺激の放出が可能になり、快楽が増大することでもある。逆に放出に失敗すると不快が増大する。いずれにせよ苦痛の漸次的増大により内部刺激の伝達経路が拡張され、快・不快の絶対値も増大してゆく。このことはSM調教にもそれなりの根拠があることを示している。

 フロイトは「自我論集」において、マゾヒズムサディズムの自己への反転としていた見解を改め、マゾヒズムそれ自体の一次性を認めるようになるのだが、それは「死の欲動」のような高度な原理だけでなく、神経生理学的根拠もあるようだ。

 やや脱線して先走りしたようたが、本論文に戻ると、やはり欲動が有機体内部の刺激に源泉があることが重要である。このことは外部刺激からの逃走では、根本的な問題解決にならないということであり、外界を変えることによってしか解決できないことを示している。人間が自然を快適になるように改変していく原動力は、欲動の内部性にある。フロイトは割と重要なことをサラリと指摘するので目立たないが、次の錯綜した文にそのことがうかがわれる。

 

   Die im Innern des Organismus entstehenden Triebreize sind durch diesen Mechanismus nicht zu erledigen. Sie stellen also weit höhere Anforderungen an das Nervensystem, veranlassen es zu verwickelten, ineinandergreifenden Tätigkeiten, welche die Außenwelt so weit verädern, daß sie der inneren Reizquelle die Befriedigung bietet, und nötigen es vor allem, auf seine ideale Absicht der Reizfernhaltung zu verzichten 

 しかし有機体の内部から発生する欲動刺激は、このメカニズム(引用者注:筋肉運動による内部刺激の放出)では克服することができない。こうした刺激は神経システムにはるかに高度な要求を突きつけるのであり、錯綜し、相互に入り組んだ活動を神経システムに起こさせる。こうした活動は外界を変化させて、外界が内部の刺激の源泉を満足させるようにする。さらに欲動刺激は特に神経システムに対して、刺激から遠ざかるという理想的な解決法を断念させる。(本書16頁)

 

 「外界が内部の刺激の源泉を満足させるようにする」とは、要するに危険な動物を檻に入れ、家畜を飼い慣らし、家を建てて雨露をしのぎ、食欲・性欲という内部刺激を低減しやすいように「外界を変化」させるということであろう。

 さて欲動とは内部的刺激に対する恒常的力であるとして、その「力」の正体とは何か?

 まずそれは外的刺激が変換された内的刺激Q'nすなわち「興奮量」とは区別される。むしろ興奮量を除去しようとする力である。フロイトはその力を「心拍」「目標」「対象」「源泉」によって外堀から迂回するように定義していくのだが、神経生理学的見解をとれば、要するに神経システムによって興奮量を低減させる能力のことであろう。

 「心拍」とは力の総量、「目標」とは興奮量の低減、「対象」は興奮量を低減させるための手段、「源泉」とは欲動の心的表象の源泉としての身体メカニズムである。「対象」と「源泉」は時折、混同して用いられるが、具体的には性感帯(口、肛門、性器など)や筋肉などである。

 性感帯がなぜ興奮量を低減させる手段になるのか、逆に興奮量を増大させるのではないかという疑問が生じるが、詳しい説明はない。そこで推測してみると、やはり「草稿」にあるように、快・不快は内的刺激の絶対量としての増減ではなく、増減の微分係数によるものであり、性感帯の痙攣による運動エネルギーの放出が、高まった興奮量を低減させ、それが快楽になるのではないかと思う。だから性感帯が興奮量低減の手段となるのであろう。ズバリ言えばオルガスムの局部痙攣が興奮量の外部放出であり、それが局部であるのは、過去の経験による内部刺激の伝達経路の形成が各人各様だからであろう。その辺の問題は差し障りがあるのか、フロイトも解説書も詳述していないので、妄想かもしれないが、一応、私見として提出しておく。ブルトンの「ナジャ」の最後の言葉にもこう書いてある。美とは痙攣的なものだろうla beauté sera convulsive.

  本論文においてフロイトは欲動の<目標>とは、欲動の源泉における刺激状態を除去することによってもたらされる満足であると定義するが、完全に除去することは死を意味する。また、フロイトはそれを最終目標として、多数の「手近な目標や中間的な目標」が存在しうるとしているが、そのような曖昧なことを言われても困る。「中間目標」とは一体何か? それは刺激状態が未だ完全に消滅していない段階であっても、減少傾向にある状態のことではないか。ここでも「草稿」が参考になる。それによると、快・不快とは内的刺激の絶対量の増減ではなく、増減の変化傾向であるとしている。つまりオルガスムによる興奮量の低減は刺激の完全除去ではなく、一時的的低減として中間的な目標であると言えよう。結局、興奮量の低減を目指す快楽原則は、その最終目標である刺激の完全な除去において「死の欲動」と等しくなるのではないかと思う。その意味では、快楽原則とは欲動の中間的目標による満足を目指すものと言える。

 欲動の「運命」とは、欲動の対象が変化することである。

 

   Es kann im Laufe der Lebensschicksale des Triebes beliebig oft gewechselt werden

 欲動が存在している間に経験する<運命>において、対象は任意に、かつ頻繁に取り替えられることがある。(本書19頁)

 

 そして欲動の対象が変化せず、ある特定の対象と結びつくことを、欲動の固着と呼ぶ。欲動は対象・目標・源泉を持っているので、それらの違いにより様々な欲動が生じるが、フロイトは自己保存欲動と性欲動の二つに大別している。自己保存と種の保存ということで生物学的分類のように見えるが、フロイトはあくまで作業仮説としている。

 「この分類は最初は神経症、正確には「転移神経症」(ヒステリーと強迫神経症)に適用された」(本書22頁)とあるが、フロイトがこのように「正確に」言い直しているのは、それまでは彼が外傷性神経症を考察から除外していたからであり、「転移神経症」だけでなく、これから外傷性神経症についても考察しようとしているからと思われる。その場合には、欲動の分類が自己保存と性欲とは「別の分類が必要になる可能性はつねに残されている」(同上)としている。まだ「死の欲動」は登場していないが、その前兆のようなほのめかしが認められる。

 フロイトは欲動の分類基準について、他の学問(生物学、心理学など)を参考としたが、結局、生物的視点も意識の観点からも「克服しがたい困難に直面」したため、精神障害精神分析的研究だけを参考にしたという。したがって精神分析が性欲動を重視するのは、ヒステリーなどの転移性神経症の診断結果に基づくしか他に方法がなかったという消極的理由による。他の神経症疾患に拡張するにつれて、性欲動に基づくのと同様の治療効果が他の自我欲動にも期待できるかどうかは不明であるとしている。

 性欲動の対象は器官快感だけでなく、加虐、ナルシシズム、文化的活動による昇華など、様々に対象が変化する。それらが性欲動の運命である。つまり哲学も精神分析それ自体も性欲動の運命である。

 興味深いのは、本論文においてフロイトサディズムの対象が自己へ方向転換したのがマゾヒズムであると説明しながら、明らかにマゾヒズムの先行性を認めている点だ。

 

   Ist das Empfinden von Schmerzen einmal ein masochistisches Ziel geworden, so kann sich rückgreifend auch das sadistische Ziel, Schmerzen zuzufügen, ergeben, die man, während man sie anderen erzeugt, selbst masochistisch in der Identifizierung mit dem leidenden Objekt genießt. Natürlich genießt man in beiden Fällen nicht den Schmerz selbst, sondern die ihn begleitende Sexualerregung, und dies dann als Sadist besonders bequem.

 苦痛の感覚がマゾヒズム的な目標となると、苦痛を与えるというサディズム的な目標が逆行的に生じうるのである。主体は、他者に苦痛を与えながら、苦痛に悩む対象と自らを同一化して、みずからマゾヒズム的に苦痛を享受するのである。当然ながらどの場合にも、苦痛そのものを享受するのではなく、苦痛に伴う性的な興奮を楽しむのである。特にサディストにとっては、これは大きな快感になる。(本書30頁)

 

 「当然ながら・・・苦痛に伴う性的な興奮を楽しむ・・・これは大きな快感になる」

 フロイトは嬉々として説明しているような感じを受けるが、全部説明されなくても分かるわ、という人もいれば、マゾヒストでない人にはNatürlichと言われても、なぜ苦痛に性的興奮が伴うのか分からないかもしれない。その神経生理学的根拠は「草稿」で触れたとおり、ψニューロンの許容量を超える内的刺激によって伝達経路が拡張され、より大きな興奮量が放出可能となるからである。だからNatürlichなのである。

 考えてみれば自己保存のための対象破壊というサディズム的欲動では、サディズムに伴う性的興奮の説明がつかないが、引用箇所によると、フロイトマゾヒズムの享受を基礎としてサディズムが逆行的に生じうる、つまりサディストは苦しむ対象への同一化により「みずからマゾヒズム的に苦痛を享受する」二次的マゾヒストであると説明している。

 この辺の事情がよく分からない人は具体例として、近頃、仏政府が自筆原稿を6億円で買取り国宝に指定したサドの作品を参照することが推奨される。その中では、16歳の娘のl’intérieur du con にcamionsをtapisserした後で執行人が彼女をfoutisすると、執行人のvitがsecouerするたびに、そのcamionsの尖端のépinglesがla têteまでenfoncerして、犠牲者はles hauts crisをjeterしたと描写されている。それを眺めていたカタリナ女帝が、こんなdélicieuxな拷問はinventerしたことがないとconvintした、というわけだから、まさに女帝は犠牲者に同一化して、サディストでありながら「みずからマゾヒズム的に苦痛を享受」したというわけだ。

 このマゾヒズムの先行性は、後の「マゾヒズムの経済論的問題」において明確になるようだ。

 

 

「カント哲学の奇妙な歪み」冨田恭彦著

 本書の最大の特徴は、カントを単独で取りあげるのではなく、ロック、バークリ、ヒュームとの関係において考察している点である。それも哲学史的な教養としてではなく、カント哲学とイギリス経験論の各々の内在論理をふまえて、それらの相互関係を通してカント哲学の特異性を明らかにしている。

 私はカント哲学が苦手で何の親近感も持てないのだが、本書を読むとその理由が納得できた。つまりイギリス経験論を知らない限り、カントが何を狙っていたかが見えてこないからだ。

 イギリス経験論は読みやすいようだが、なんとなくイケてない気がして、これまで一冊も読んだことがない。だからドゥルーズが『差異と反復』の冒頭で、経験論者が一般観念を、「それ自身において個別的なひとつの観念として提示する」と言っていることの意味も分からずお手上げの状態だった。

 本書はそうした経験論における一般観念の議論にも言及されているので、未知の分野で難解であるが、読んでみようという気になった。

 すると一見遠回りのように見えて、これこそがカント哲学を理解する最短のルートではないかと思うようになった。

 カントの超越論的図式に時間が関係していることは、ハイデッガー廣松渉中島義道など多くの哲学者が注目しているところだが、本書はイギリス経験論における「一般観念」と対比してその意図が詳細に解明されているので、類書にはない視点がある。

 カントが像とは区別して「図式」という概念を提示する狙いは、イギリス経験論との比較によってはじめて明瞭になる。

 例えば犬という一般観念は、それに対応する直観像が存在しない。柴犬やプードルなどの個別の像を持つことができるだけで、犬そのものの像を思い浮かべることはできない。三角形という一般観念も同様であり、無理に像を思い浮かべようとすると、四足動物や三本で囲まれた平面などの曖昧な像が浮かぶのだが、それらもやはり曖昧なままの特殊な像の一つであって、たとえ不定形な三角形を思い浮かべたとしても、それは二等辺三角形や直角三角形などのすべての特徴を含む像ではない。すると一般観念に特殊が含まれることがなぜ可能となるのか問題となる。

 著者によるとロックは多様な個別観念の共通部分として像なき一般観念を想定し、バークリは個別観念を一般観念の代理とし、ヒュームは一般観念を個別観念群の連想機能とすることで解決したとしている。

 これに対し、カントの解決方法は独特であり、一般観念は個別の像を生成する規則としての「図式」に結びついているものとして解決している。したがって「図式」は像ではなく、像を生み出す規則、いわばアルゴリズムのようなものである。

 例えば犬という一般観念は、柴犬やプードルなどの個別の像を生み出す規則であるということである。規則だからそれに対応する具体像は存在しないが、一般観念と特殊との結びつきが「図式」によって可能となる。

 この「図式」の考えは一般観念を個別像の連想機能とするヒュームの考えに似ている。ほとんどパクリのようなところがあるが、決定的に異なるのは、連想は経験的だが、規則(アルゴリズム)は超経験的であるという点にある。

 例えば「五」という観念には五つの点という像を対応させることが可能である。しかし「自然数」という観念には、無限個の点という直観像を対応させることはできない。ヒュームの連想機能では限界がある。しかしカントのように一般観念が像を生成する規則であるとすると、点を無限個並べていく規則である「図式」によって自然数の一般観念と無限個の点を結合することができる。だから「図式」とはペアノのアルゴリズムのようなものと言えるかもしれない。

 かくして経験的な一般観念については問題解決したが、すると次にいかなる経験的な直観像とも関係しない純粋悟性概念が問題となる。(著者は「純粋知性概念」としている。中山元も同様だが、カント学者の中には「悟性」ではなく「知性」と訳す学派もあるようだ)

 「原因」とか「相互性」などの純粋悟性概念は、いかなる具体像も生み出すことがない。

 試しに「原因」の像として、ビリヤードの球の衝突などを思い浮かべたとしてもそれは、あるイベントのあとに別のイベントが継起したという像であって、原因そのものの像ではない。

 であるにも関わらずなぜ経験的直観が純粋悟性概念に包摂されるのか、つまりなぜ例えば因果性というカテゴリーを現象に適用することが可能となるのか、これがカントの問いである。その答えが純粋悟性概念の超越論的図式である。

 つまり純粋悟性概念である「原因」の超越論的図式とは、あるイベントのあとに別のイベントが継起するという規則である。それは規則であって継起する像ではない。同様に「相互性」の図式は、ある実体が別の実体と同時に存在する規則である。こうしてみると超越論的図式が時間に関係していることが分かる。そしてカントが初めに時間を感性のアプリオリな形式とした理由も分かってくるのである。

 以上、本書のごく一部を私見をまじえて紹介したが、これ以外にも「物自体」や「無限判断」などの論点についてイギリス経験論と対比した解明がなされていて、実に興味深く有意義な本である。

 

 

「原子心母」椹木野衣著

 この本はピンクフロイドではなく現代芸術についての論考であるが、ここまで分かり易く説明している本は珍しい。

 まず著者は印象派の説明から始めているが、印象派における眼の重要性を強調している。それは図式的に言えば外面世界を対象とする古典芸術から内面世界を対象とする現代芸術への通過点として眼が位置づけられるということであり、映画『アンダルシアの犬』において眼が切り裂かれる場面を一つの象徴として捉えているところが興味深い。つまりシュルレアリズムは印象派の眼から内面世界へ向かうということである。

 したがって印象派の筆触分割という技法は、単なる光の明るさの獲得ではなく、客観的対象物としての絵具の混合による色彩から、眼による光の混合への移行であるとしている。

 しかし、現代芸術において対象が眼を通過してさらに内面世界へ移行すると、蛍光塗料のような光を発するものが素材として使用されるようになったという。

 さらに外面と内面という二元分割自体が拒否されるようになると、日常と非日常という分割も否定され、芸術作品という特別な対象もなくなり、便器が芸術作品になったりする。

 芸術対象が内面へ移行することにより、形態も色彩もイメージも重要ではなくなるというのである。

 しかし著者は内面の心の世界を描くことが現代芸術ではないという。著者は幻覚剤を使用したアートを単なるイメージに過ぎないとして否定している。夢のイメージは夢ではないのであり、眼が醒めたときの離散的イメージの編集における論理矛盾こそが夢の正体であるという。

 同様に、映画もまた、幻想的イメージを描いたからといって幻想になるわけではない。ドキュメンタリー映画も離散的イメージを縦横に編集しており、非現実的な時間を創出している点で幻想映画と同じであるとのことである。こういう観点からすると、ヴィム・ヴェンダースの『夢の涯てまでも』も黒澤明の『夢』も共に夢のイメージであって、夢そのものではないことになる。これらの映画に夢に近いものがあるとすれば、それはフィルムを編集する方法にあり、イメージとしては知覚されないもの、むしろ各コマのイメージの非現実的な分離的共存にある。

 また、記憶についても、連続時間をそのまま記憶していることなどありえず、ただ離散的記憶を事後的に編集しているに過ぎないことをベルクソンを援用して説明している。

 ベルクソンは心が空間をもたないことを主張しているが、いくらベルクソンドゥルーズがそう主張していても、やはり脳に意識があるということは否定できないのではないか。

 この点について、著者は面白い思考実験により巧みに説明している。

 著者によると、脳に意識があるという思い込みは、眼の位置が脳に近いからだという。

 ここで、仮に手のひらに眼があるとすると、眼は自分の頭をみて、心が遠隔対象の頭にあるとは思わず、手のひらに心があると思うだろうというのである。

 この思考実験は突飛に思われるかもしれないが、遠隔操作ロボットを引き合いに出されると現実味を帯びてくる。仮想現実が進化していくと、たとえ「我思うゆえに我あり」といってみても、その我がどこにあるのか不確定になる可能性がある。

 哲学ではなく、こういう方法で説明されると、ベルクソンの説も本気で考えてみる必要があるように思われる。

 このように著者が主張するとおり夢・記憶・映画が離散的イメージの事後的編集という点で共通しているとなると、実人生そのもの、世界それ自体も芸術となりうる。例えば記憶は過去そのものではなく、離散的記憶の編集による物語である。それを過去それ自体とするのは単なる思い込みに過ぎない。

 それではなぜ、特定の者しか芸術家になれないのか? 著者は明言しないが、著者の論理をたどると、そこには覚醒ということがあるようだ。

 つまり、離散的記憶や離散的イメージを連続的結合として捉えると、それは現実の連続時間と混同されるのである。あたかも映画のコマ送りが連続運動を生み出し、現実の似姿となるように。同様に離散的記憶をつなぎ合わせて連続した時間と取り違えると、画一的で平凡な人生の物語となる。これは芸術家ではない普通の人間が普通に行っている思い込みである。

 現代の芸術家は、この離散的記憶や離散的イメージを分離的共存として捉えている。

 著者によると、ポロックの絵は、イメージの連続的結合としてみると絵具の飛び散りでしかないが、イメージの分離的共存としてみると、個々の絵具の線の差異が非空間的持続を表すという。そしてそれは世界そのものの現実でもある。これが覚醒である。

 私見ではプルーストの小説も、記憶の結合による過去のイメージではなく、記憶の分離的共存による過去の顕在化であり、ポロックの絵と同型である。個々の記憶が絵具のドリッピングであり、それぞれが異質なものの分離的共存であり、潜在的共存である。

 このように、この本はベルクソンドゥルーズの思考と現代芸術を交差させており、類書にはない魅力がある。

「20世紀美術」高階秀爾著

 この本は逸話を交えた親しみやすい内容であるとともに、論述も雄弁であり納得させられる。

 著者はまず絵画と彫刻の歴史を、オブジェとイマージュの二元論で解釈している。

 古典芸術の絵画は二次元のイマージュによって想像上のオブジェ(モナリザ、聖母子など)を追求するものであるが、現代芸術は絵画が現実のオブジェ(絵具)に過ぎないという発見に基づいているということである。

 デュシャンが複製のモナリザに口髭を描き加えたのは、絵画が想像上のオブジェへ向かうことを阻止し、現実のオブジェであることを示したということである。

 また現代芸術における画家が廃棄物や陶器などに関心があることや、彫刻芸術が興隆したことなども、現実のオブジェに対する関心が高まったことを示している。

 コラージュとは現実のオブジェ(新聞紙、布など)を2次元のイマージュに統合するものであり、レリーフは逆に2次元のイマージュを現実のオブジェに統合するものとして説明されている。

 著者はフォンタナの空間芸術をその極限とみている。つまり単一色のキャンバスはイマージュの極限であり、それがそのまま裂け目によってオブジェとなっているというわけである。

 さらに著者は「分化」と「強調」という二軸により、キュビスムとフォービスム、新造形主義と表現主義スーパーリアリズムコンセプチュアルアートに至るまで、現代芸術における様々な流派や主義の配置を明快に説明されているが、それにも関わらず、読後感が今一つ曖昧となる原因は、著者にとって絵画の美とは何かが正面切って論じられていないことによるものと思われる。

 だが次のように、そのことを推測させる部分がある。

 

 イマージュの世界は、われわれにとって無限の感覚的喜びの源泉である。(36頁)

 アリストテレスの言う「有用性を離れてそれ自身のために愛される感覚」が芸術を成立せしめる基本的な条件となる(36頁)

 絵画や彫刻という「造形芸術」は、それがすべてではないとしても、イマージュの持つこのような感覚的喚起力に基礎を置いている。(37頁)

 

 これはオブジェとイマージュが何であるかを説明する部分であるが、絵画の美が何であるかを説明するものとしては、この部分しか見当たらないので、これが著者の美についての見解と見なしてよいであろう。

 するとイマージュなしで芸術はありえないということになる。

 現代芸術においてオブジェが重要であるのは、オブジェそれ自体が重要なのではなく、オブジェとイマージュとを混同している写実主義が「虚構のイマージュ」だからである。

 つまりオブジェから触発された「モティーフ」こそが真のイマージュであり、「主題」はオブジェとイマージュを混同しているというわけだ。

 したがって漫画の印刷網点を拡大強調するリキテンスタインやマリリンモンローの写真の色を変えるウォーホルは、素材がオブジェであることを強調し、作品が想像上のオブジェへ向かうことを阻止するのであるが、(デュシャンの髯のモナリザも同様である)それらは、オブジェ自体を芸術としているのではなく、現実のオブジェを使って真のイマージュを産み出しているとも言える。

 このことは現代芸術がオブジェであるからといって、それを物そのものとして見たところで鑑賞にはならないことを意味する。印刷網点は印刷網点に過ぎず芸術ではない。それらが指し示している真のイマージュを捉える必要がある。

 また芸術家が指し示している真のイマージュが見慣れた光景や人物(モンロー等)や物語のイマージュでないことも確かである。

 

スピノザと死の本能

 考えてみればconatusコナトゥスというのは奇妙な概念であって、それは自己保存であると同時に自己解体の原理でもあるんだな。個体が自己の存在に固執しようとする努力がコナトゥスだけど、スピノザはそれがその物の本質だという。

 昔はこの自己の存在に固執するというのを、自己保存つまり自己の生に執着することだと私は解釈していたんだけど、それは違う。第三部定理七の証明をよく読んでみると、それは自己の本質に固執することなんだ。自己の本質、つまり自己がなし得ることに執着することがコナトゥスであって、単に生き延びることに執着することじゃない。自己のなし得ることを放棄している個体は、死ぬまでもなく最初から本質として死んでいるわけだ。

 個体の原因は外部にある。私の現存は親が原因だ。だから最終的には維持できない。いつかは滅ぶんだな。存在を現存とする限り、個体は現存を維持することはできない。そのような努力はムダなことだ。

 スピノザが言う存在は現存ではなく、本質のことであって、その本質から必然的にいろいろなことが生じる。神の本質が自己原因であるとは、まさに本質それ自体が表現として動的であるということだ。万物の創造因ということは、本質が脱中心化して動いていることだ。通常、本質といえば何か静的で永遠に自己同一のものというイメージがあるんだけど、スピノザの本質観はまったく逆なんだな。神は常に自ら変様して解体している。

 で、個体は実体(神)の様態的変様だけど、その本質を分有しているから、たとえ他の原因により滅ぶことはあっても、個体の本質から生じることを行おうと努める。神のように万物を創造することはできないけど、自己が創造しうる限りのものの原因であろうと努めること、それがコナトゥスであり自己の本質というわけだ。単なる延命じゃない。生きるか死ぬかが問題ではなく、あたかも神が自己変様するように、個体もまた自己の本質に従い変様するか否かが問題なのだ。自己同一を保存とするなら、コナトゥスは自己同一の否定であり、むしろ解体の原理でもある。で、この自己の創造しうることの原因であることは、神の本質(自己原因)の分有だから永遠であるというわけだ。

 ところでフロイトのいう「死の本能」は快原理に対立するものじゃない。むしろ快原理の完成でもある。緊張による不快を解消して緩和することが快の定義だから、究極の緊張緩和は死でもある。死の瞬間にエンドルフィンが出て苦痛がなくなるという説もあるが、別にそんな脳内麻薬がなくても、死が苦痛の消滅であり究極の快であることに変わりはない。つまり苦を避けて快を求める快原理は、死の本能が迂回したものでもあるわけだ。

 フロイトが死について考察したのはなにも「死の本能」が初めてじゃない。「去勢」の段階ですでに死が考察されている。ラカンの「去勢」解釈に従うなら、「去勢」とは死からの誕生でもあるんだな。つまり想像的自我は自己の存在をめぐって、他者と闘争することになるんだけど、その闘争は決着がつかないから両者が死ぬまで続くことになる。そこで死を回避して想像的自我が象徴的自我になるのが「去勢」というわけだ。つまり父の名が介入して、想像的自我の闘争が終わりとなる。この介入が不全だと象徴的自我が誕生せず、精神分裂になる。

 だけど生命は変化するものであり、最終的には死を含んでいるからね。だから死を回避することは、自己が生として無-意味になるってことなんだな。「去勢」による象徴的自我の成立とは、シニフィエなきシニフィアンとしての自己(象徴的ファルス)になることでもある。だから自己は常に解釈される必要があるというか、解釈がそのまま自己意識でもあるわけだ。

 つまり「去勢」とは脱意味化であり、死の回避が空のパロールを産み出すことになる。まあ、日常的自我が空談でなりたっている(このブログもそうだ)のはそのためかもしれない。

 そうしてみると「死の本能」を切り捨ててしまうのは、生それ自体が無-意味になることであり、それが公共世界に住む私たちの日常でもある。

 そこでスピノザのコナトゥスだが、生を現存、死を非-現存とするなら、明らかにコナトゥスは生と死の対立を超えたところにある。現存するか否かではなく、自己が創造しうることの原因であろうと努めることがコナトゥスだから。そしてそれは永遠だから。その概念は死を回避していない点で、生に充実した意味を与えていると思う。

 

スピノザとウィトゲンシュタイン

 スピノザウィトゲンシュタインを比較してみると、両者はほとんど無縁のように思えるんだけど、ただ一点、因果関係の捉え方が似ているように思う。

 ところで、哲学と自然科学との力関係が逆転したのは、私見では因果関係の捉え方に変化が生じたためじゃないかと推測している。つまりアリストテレスの言う哲学、知を愛するということは、知識全般を愛するってことじゃない。それだと単なる勉強好きも哲学者になってしまう。そうではなく、哲学の知とはソフィア、つまり原因知として神性を帯びた第一原因の探求なんだな。それはアリストテレスの「形而上学」でも明記されている。だから自然学もまた原因知の探求ということで哲学になる。自然学の根底にさらに第一原因の探求として形而上学があるわけだ。原因を知るものは、その知りうる範囲で因果関係を支配する力を持つ。哲学が無力なのは、第一原因に到達していないからに過ぎない。だから現代で最大の力を持つのは、それより手前の形而下的原因を知る自然科学者達だ。もしも哲学が第一原因に到達したら、それは神に等しい力を持つことになる。この原因知への探求欲は神に挑戦する魔術的な力でもあり、自然哲学の末裔である現代科学もその力を分有しているようだ。

 ところが原因の探求は無限過程であるがゆえに、中世では第一原因の探求を諦めて信仰に委ねるしかなかったわけだ。そこで、哲学はデカルトによって探求の方向を変えたんだな。それは事実原因の探求ではなく、因果関係それ自体の根拠の探求に変わったんだ。それが連続創造説だ。つまり因果関係は必然的だが、因果関係それ自体が設定されているのは偶然だというわけだ。個々の原因の探求ではなく、なぜそうした因果関係が存在するのかという問いに変わったわけで、デカルトは神による連続創造によって因果関係を根拠づけたんだな。

 スピノザはさらに超越神による「連続創造」ではなく、内在神である「自己原因」を因果関係の根拠にしたわけだ。

 そうなってくると、結局、哲学は無力になる。なぜなら事実を支配する原因の探求ではなく、因果関係それ自体の根拠の探求になったからだ。因果関係がなぜ存在するのかということが解明されたとしても、それは個々の具体的事実を制御する原因知にはなりえない。それは結局のところ、自己納得に過ぎなくなってしまう宿命にある。

 実際、その後の哲学の歩みは自己納得の歴史だ。むしろアリストテレスの野望を継承しているのは、自然科学の方である。ただ問題は事実の原因知の探求が終わりえないこと、またそうした原因知によって因果関係を支配する力を得たとしても、自分がなぜ生まれてきたのか、つまり因果関係それ自体の原因については無知であるしかないということなんだな。哲学はそこへ探求領域を切り替えたわけだ。

 要するにスピノザの「自己原因」は、アリストテレスの言う「第一原因」じゃない。「自己原因」とは因果関係それ自体を成立させる根拠であって、因果事実の具体的原因を知ることとは違うんだな。

 カントもまた因果関係を純粋悟性概念に含めているから、因果事実の探求とは区別して因果関係を先験的関係として捉えている。これもまた因果関係の根拠を提示してるんだな。つまりヒュームは因果事実を因果関係としたわけだが、カントは因果事実を根拠づけるものとして先験的悟性概念としての「因果関係」を捉えているわけだ。それは根拠づけという点では、スピノザの自己原因に類似している。

 で、ウィトゲンシュタインだが、彼によると個々の命題間には因果関係が存在しない。すると自然科学は成り立たないことになると誤解してしまうが、私見では彼の体系においては、自然科学それ自体が一個の巨大な複合命題になるのだと思う。つまり無数の命題が論理定項によって複雑に結合されて一個の複合命題になる。因果関係はその複合命題における論理定項の「ならば」によって示されている。そうした論理定項としての因果関係を含む複合命題に、因果事実が合致するならば、その複合命題は真ということになるわけだ。これはカントが因果事実と区別して因果関係を純粋悟性概念に含めたのと同型ではないかと思う。さらにウィトゲンシュタインはこの論理定項それ自体は語りえないとしてるわけだ。ということは論理定項の一部である「ならば」は、因果関係を示すものだけど因果事実の根拠でもある。スピノザは因果関係の根拠を「自己原因」と名付けたが、ウィトゲンシュタインはそれを「語り得ない」としたわけだ。

 以上、思いつくまま乱筆で書きなぐったんだけど、要するに因果関係と因果事実とを混同せずに整理すれば、スピノザ、カント、ヒューム、ウィトゲンシュタインの関係を捉えることが可能になると思う。